『我的印象北京、2005年。(2)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

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旅のはじまりは両替からだ。毛沢東。マオ・ツートン。ツーの音は低く、トンで跳ね上がるその響き。ぼくは見ていた、皺くちゃになった紙幣に印刷された毛沢東の顔を。聡明そうな額、細い眉、二重まぶた、福々しい鼻、厚い下唇、口角を軽く引き締めて・・・国民服を着たかれは穏やかな無表情でそっぽを向いている。皺くちゃになった毛沢東、それはほとんど皮肉な冗談だった。ぼくは成田空港でまだ見ぬ中国をおもい、ブラック・ジョークの毒気にあてられていた。




ぼくが中国と最初に出会ったのは、ソニーのまっ赤なちいさなトランジスタ・ラジオを通じてだった。その頃ぼくは瀬戸内のちいさな町に住んでいて、人間よりもカエルの方がよほどたくさん住んでいた。夏は田圃の緑が一面に拡がり、カエルの合唱が響いた。冬は枯れた土が寒々と拡がった。ぼくはいつもトランジスタラジオを持っていた。ラジオから流れてくるヒット曲は、どこかピカピカした幸福な、夢の世界へ続く通路だった。ぼくは愚かにして無邪気にも、大人になったら髪を伸ばしてヒッピーになろうとおもっていた。ジョン・レノンは『真夜中を突っ走れ』を、CCRは『雨を見たかい?』を、ミッシェル・ポルナレフは『シェリーに口づけ』を、ギルバート・オサリヴァンは『ヴィンセント』を、T-REXは『チルドレン・オヴ・ザ・レヴォリューション』を、吉田拓郎は『人間なんて』を歌っていた。AM放送の電波はとくに冬場は虹のように雑音が入った。ぼくがかっこいい音楽を探してダイアルを廻していると、妙に堅苦しい日本語で毛主席の中国5カ年計画を伝える放送が流れてきた。あのころ学校の廊下には壁新聞が貼られ、世界のニュースが報じられていた。そのモノクロの新聞のなかで、ぼくと同世代の中国の少年少女が胸を張って行進していた。




それから十余年経って、当時ぼくは東京都豊島区北大塚に暮らしていた。ぼくは広告や編集の仕事をしていた。ある初夏の気持ちのいい午前中、新大塚へ向かう路上でぼくは、ひとりの若い女が澄み渡った綺麗な声で歌を歌っている姿を、見かけた。彼女があまりにもたのしそうだったので、ぼくはなにげなく彼女に声をかけた。そしていつのまにかぼくと彼女は友達になっていた。彼女は、中国人で日本に留学していた。ぼくは彼女と何回か、かわいいデートをしたものだ。彼女は二重橋へ行きたがったので案内したものだ。丸の内のあたりを歩くとき、上海に似てるね、と言った。寒い冬の日、ぼくは彼女をそっと抱き寄せ、小鳥のようなキスをした。彼女は、おれに「ユー・アー・バッド・ボーイ!」といたずらっぽく笑った。彼女はぼくを部屋に呼び、彼女の準備した、ニラのいっぱい入った餃子を、一緒に作って食べた。その餃子はニラの量が多すぎてぼくにはちょっとえぐい味だった。とは言えぼくも一応「おいしいね」と言ったけれど、彼女はぼくの本心を見透かし、「ごめんね、おいしくなかったね」と言った。優しい子だった。そしてぼくはおもいだす、彼女とふたりで、神保町の岩波ホールに中国映画『芙蓉鎮』を見に行った夜を。あれは1988年のことだ。ぼくと彼女は神保町のスヰートポーズで、肉まんをほおばり、『芙蓉鎮』を見た。上映まえに彼女は得意がった、「お客さん、みんな日本人。中国人、たぶんわたしだけ。」・・・




驚くべき中国映画だった。文化大革命に拠って、運命を翻弄される豆腐屋の看板娘の物語。ドラマはこんな具合だ。むかしむかしある田舎町に、仲のいい夫婦がやっている豆腐料理の定食屋があって、繁盛していた。ふたりは一所懸命働き、笑顔で商売をし、店は人気だった。ヒロインの名は玉音(ユイイン)。しかしそんななか一人だけその店の人気を妬む者がいた。それは近所の国営食堂の女主人だった。



数年がたち、時まさに文化大革命のはじまりつつある時期。国営食堂の女主人は、県の政治工作班長に昇格し、運動の指導者になっていた。そこで長年の嫉妬を晴らさんと、例の繁盛している豆腐屋を、集会で、ブルジョワ的と名指しで批判した。玉音(ユイイン)は涙ながらに訴える、「私たちは賢明に働いた、ひき臼の柄がすり減るほど、鍋底に穴があくほど。いったい私たちがなにを搾取したと言うの?」 



玉音(ユイイン)は身を案じ、しばらく田舎へ逃げる。やがてもとの町へ戻ってみると、新築の家も没収され、貯金を取り上げられ、夫は処刑されていた。ふたりを支持していた町の人たちも「自己批判」させられていた。



玉音(ユイイン)は罰を受け、人民のため、町の掃き掃除に明け暮れる。このときヒロインは、秦さんという男を愛し、やがてかれの子を身ごもる。ふたりは嘆願書を出すが、これがあだとなって、秦さんは、懲役10年の刑に。別れ際に秦さんが玉音(ユイイン)に叫ぶ、「生き抜け。ブタのように生き抜け。牛馬となっても生き抜け。」



玉音(ユイイン)ずっと町の掃き掃除をしながら、秦の帰りを待ち続けた。やがて嵐のような文化大革命も終わり、数年がたった。玉音(ユイイン)と秦の名誉も回復され、彼女は新築の家と貯金を返してもらい、また元と同じように米豆腐屋を今度は秦と始めるのだった。まるですべての哀しみも受難も、なにもなかったように。




ぼくは1988年という年をおもいだす、昭和の終わりのあの時期、すでにものすごいいきおいで円高は進み、日本はバブルの直前だった。文化大革命の血塗られた暗部については、まだ、(中国本土以外では)ほとんど知られていなかった。日本の新聞やテレビの報道は、かんぜんに中国共産党によるプロパガンダで、したがって中国国外のほとんどの人たちは、中国人たちはたとえ貧しくとも、みんなで力を合わせて良い国を作ろうとがんばっているんだ、と、おもいこまされていた。それがまさか、親兄弟親類縁者であろうが、恋人、はたまた隣人であろうが、密告奨励の社会だなんて夢にもおもわなかった。赤い手帳を掲げた少年たちが教師を吊るしあげ、寺や図書館をぶっ壊し、立派な翻訳者や音楽家たちが虐殺されたことを知ったのも文革が終わってずっと後になってからのこと。そして中国映画『芙蓉鎮』は、初めて、文革の、泥だらけの真実をメロドラマの形をとって表現した映画だった。



映画を見終わったあの夜、映画があまりに衝撃的で、ぼくは中国人の女の子と、いつのまにか会話がぎくしゃくしはじめていた。ぼくはあまりに中国のことに無知だったし、しかもふたりの言語能力もまたあまりにちいさかった。ささやかな日本語と、あまりにつたない英語。いつのまにか、ぼくと彼女は、つまらないことで、会話をもつれさせてしまった。ぼくは夜の神保町の通りをいまも覚えている。しかもあの頃ぼくは編集者をしていてあまりに忙しく、何度か電話のやりとりをしながら、しかし彼女と次のデートは叶わなかった。(なんということだろう!)ぼくはかつて大塚の通りで耳にした、あの、明るく透き通るような彼女の歌声を、いつのまにか失ってしまったのだった。



https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/170290/へつづく
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