『我的印象北京、2005年。(14)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

日記詳細

ぼくは永和大王で油条、豆乳、水餃子を買い込み、クルマに乗り込む。さようなら、北京。えんえん拡がっている、果てしない街。どこまでも続く片側六車線のハイウェイ、ぼくはいま北京に別れを告げる。



ぼくは北京を飛び立つ飛行機のシートで、ひとりの50歳くらいの中国女性と隣合わせることになる。ぼくは、シートに隣りに座っていた中国人女性と、いつしか話し始めていた。白髪の混じる髪を綺麗にまとめた、質実な印象の女性だ。



ぼくは訊ねた、「中国ではどちらへ行かれたんですか?」
彼女はゆっくり言った、「私は、もともと中国人ですよ。でも、いまは日本人。今回は海南島へ行きました。東洋のハワイと言われます。泳ぎました。親がもう歳ですから、少しでも一緒にいる時間を持とうとおもって。あなたは、中国はたのしかったですか?」


ぼくは答えた、「ええ。おいしいものをいっぱい食べました。北京は大きいですね。すごく広い。それに北京はいま、どんどん新しくなっていますね。デヴェロッピン、デヴェロッピン、デヴェロッピン!」
彼女は答えた、「そうでしょうね、でも、私は今回、北京は2日しかいなかったから、あまりわからない。わたしは北京のいまのことはわからない。」



ぼくは言った、「中国はどんどん過去を捨ててゆきますね。どんどん新しくなってゆく。・・・あなたはさぞやさまざまな体験をなさったでしょうね。」
彼女は言った、「わたしはハルビンに生まれました。」
ぼくは言った、「日本人はむかし悪いことをしました。わたしはあなたに謝らなければなりませんね。」
彼女は言った、「いいえ、それはわたしたちの生まれる前のこと、政府同士がおこなったことですよ。それにいまはわたしも日本人です。」




彼女は言った、「わたしはいま50歳ですよ。文革開始が1966年、わたしは小学4年生だった。わたしは運が良かった、農村には行かなかったから。わたしは部隊に入った。」
ぼくは言った、「お寺を壊してまわったり・・・」
彼女は言った、「男の子はいろいろやりましたね。・・・わたしは運が良かった、でも父は大変だった。」
ぼくは言った、「文革は十年続きましたね、つまりあなたの少女時代はずっと文革だった。」
彼女は言った、「そう、わたしの十代はぜんぶ文革でした。オープンになって、中国がアメリカと友好を結んだのが1979年。わたしはアメリカへ行きたかった、自由がどういうものか見てみたかった。でも、アメリカのヴィザは出なかった。だから日本へ来た、40万円で学校に入って。それからわたしは台湾人の夫と結婚した。」
ぼくは言った、「で、それからはずっと日本に。」
彼女は言った、「ええ。千葉で病院をやっています。夫は東北大で勉強した医者で、中国では針も漢方も勉強した。日本に来て15年になるよ。早いね。」


彼女は言った、「このあいだ4日間の旅行でポーランドへ行きました。ウクライナみたい。ロシアとは景色が違う。ポーランドには、アウシュヴィッツ博物館があります。・・・それを見ようとおもった。・・・」


ぼくはそのときおもった、彼女の胸の奥には、文革から30年たったいまも、おそらく誰にも語ることができないし、語ったところで体験をともにしていない者には理解されようはずもない「なにか」がおそらく鉛のように沈んでいるんだろうことを。


彼女は言った、「わたしたちには子供がひとりいます。いま高校生。夫は跡継ぎがほしいと言う。医者になるため全寮制の学校へ行ってる。でも、先生からはいまの学力では医学部は無理と言われた。」


やがて飛行機は成田に着き、別れ際、彼女はおだやかに微笑んた、「体のことが心配になったら、うちへ来てください。健康保険も使えますから。」



https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/170302/へつづく
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