ソウルへの旅にまったく不安がなかったかと言えば、嘘になる。怪しげに仕入れた教養とは言えややこしい20世紀史について、まったく無知というわけでもない。そんなぼくが、韓国への熱烈な関心をもちながら、しかし、ソウル Seoul の夜という夜がすべて月夜の晩というわけでもないかも・・・だよなぁ、と、心のどこかでかすかに不安がっていたとしても無理はないだろう。そんなぼくを乗せて、コリアン・エアは成田を飛び立ち、海峡上空を抜けていった。むろん雲の上はいつもと変わらず晴れ渡った青空だったけれど、仁川空港 Incyon inte'l Airport へ降り立ったときには、すでに日は傾きはじめ、おまけにソウル は、小雨が降っていた。
入国審査を抜け、空港通路を歩くぼくが見た光景は、通路の片側にディスプレイされたアクリル・ガラス数枚、そこに映る美しい写真と、端正なタイポグラフィー(英文とハングル文字)だった。ただし、それを読むまでもなく、一目でわかるのだ、韓国という国の人々のいとなみの流れが。そう、かれらは端正な磁器をつくり、金色に輝く冠を磨き上げてきた。そしてかれらはじぶんたちのいとなみを、誇りをもって客人たるぼくたちに紹介しているのだった。
ぼくは、宿に予約の電話をかけるため、空港内のコンビニでコインをつくる必要があった。ぼくは見慣れた商品たちがすべてハングル文字に差しかえられたような光景のなかから、牛乳を選びレジでそれを買った。そしてその場でぼくは、てのひらの釣りの札とコインを見せながら、レジの女の子に、「アニョハセヨ!」とあかるく話しかけた。そう、ぼくは公衆電話に必要なコインの種類を訊ねたかったのだ。ただし、ぼくが知っている5つほどの韓国語例文のなかでそのときつかえる唯一の韓国語は、アニョハセヨだけ。ぼくは即座に会話を怪しげな英語に切り換え、意図をつたえた。
レジの女の子はぼくに微笑んだ、花が開いたように。彼女はテレフォン・カードを渡そうとして、ふと、気がつき、「You want coins?」と、ぼくの確認をとってから、ぼくの手から100ウォン札をひらりと取り、10ウォン玉10枚に崩し、じぶんの手に握った10ウォン玉10枚を、笑顔で、ぼくのてのひらに移した、ぼくの顔を見て微笑み、軽くぼくの手をつつむように。
ぼくは浅黒い肌の異国の人のとなりで宿に予約の電話をかけ、(訊ねてみたら、隣の浅黒い肌の男はバングラデシュ人だった)、外に出て、リムジンバスを待っていた。そのとき、乾いた肌寒い冬の空気のなかで、ぼくは前方のドームに気がついた、ぼくがいま居るこの空港が、実にクールな建築であることに。そう、仁川空港 Incyon inte'l Airport は、(後に知ったことだが、2001年だかに誕生した新しい空港で)、銀色の金属とガラスを多用した、亀のようなひらべったい2つのドームで構成されていた。(ひとつはゲート部のドームと、そしてもうひとつはカウンターや出入国手続き、そして店舗類などをもつドーム。そしてこのふたつのドームを、左右ふたつの「ガラスを基調とした、蛇腹のような通路」が、つないでいるのだった。
クールだ。ぼくはつぶやいていた。1988年のソウル・オリンピック、1990年代に入ってからは、あの1980年の、流血の民主化闘争の都市 光州はアートの街へと変貌し、1998年の日本文化禁止の解除、そして2002年ワールド・カップを経た韓国は、いま、クールに変身しようとしていることを一瞬にしてぼくは理解した。
そしてぼくを乗せたリムジンバスは、小雨のなかを走りはじめ、やがて雨足は土砂降りへと変わっていった。ハイウェイは川のようになり、視界は灰色につつまれ、前方の濡れた路面に、先行するクルマたちの赤いテールランプが流れてゆく。
ぼくはかすかな不安を払いのけるべく、韓国料理のふたつの系統についておもいをはせていた。そう、サムゲタン系おだやか味(コムタン~ソルロンタンもふくむテール・スープの、やわらかくやさしい味わい)と、チゲ鍋的なトンガラシ系のホットな味わい。そしておれは推理していた、このふたつの味覚に、韓国料理という妙なる音楽の、味のあつかいの秘密が存在しているのでは、と。
胸いっぱいの期待とかすかな不安で揺れるぼくの心をよそに、リムジンバスはようやく街の中心部へたどり着き、漢江 Han-gang River を渡ってゆく。川だ、広くすばらしい河だ。雨に煙る浅い夜のなか、向こう岸の高層住宅の窓のたくさんの光が揺れていた。後におれは知ることになる、それがソウルのセーヌにも喩えられる川であることを。だが、ぼくはおもう、パリのことなど知ったことか、韓国だ、そう、韓国料理こそがぼくの関心なのだ。そして土砂降りの夜のなかを、リムジンは漢江 Han-gang River を渡ってゆくのだった。ぼくは窓の外にひろがる抽象絵画のような風景を見ながら、そっとつぶやいていた、ソルロンタン、キムチ、チゲ・・・。ソルロンタン・・・、異教の祈りの言葉を囁くように。
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