『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(31)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

日記詳細

国民会議派が、英国による統治への対抗勢力になってゆく






ブリティッシュ・インディアは、
英国王室の直接支配であり、
トップに英国インド省があって、
そのインド省のインド大臣が、
英国人インド総督を選び、
かれが五年任期でインドを統治する。
インド総督は、行政参事会 (Executive Council) を率いて、
そのメンバーは、インド文官(Indian Civil Service)から成る。





このなかでわずかなりともインド人が食い込めたのは、
公募・試験によって選ばれる、インド文官のみだった。
しかもそのインド文官試験さえもロンドンで行われていたし、
さらには、厳しいインド人枠制限が課せられていた。
早い話が、英国にとってインドは、
農場であり、鉱物資源の調達場所であり、
英国商品のマーケットであり、軍人を調達する場所であり、
公務員のなかに多少インド人が混じっていれば、それで十分。
英国人にとっての理想は、
永遠にインドが、この境遇に甘んじ続けることだった。





したがってインド独立運動は、前期・中期においては、
<英国側が握る議会政治に対する、
インド人たちの政治結社たるインド国民会議派がリードする市民運動の闘い>、
という図式になった。
国民会議派は長いこと在野の政治結社であり、
かれらが地方行政に参入できるようになるのは、
1935年のインド統治法の発布後のことである。










そもそも国民会議派 National Congress は、
1885年に英国側が作ったもので、
インド知識人たちの不満をガス抜きするための諮問機関だった。
(発案者は、スコットランド人のインド地方公務員であり、
鳥類学者としても有名な、Allan Octavian Humeだった。
かれは神智学に傾倒していた)。
しかし、国民会議派は、
1905~08年のベンガル分割反対運動以降、
政治結社として、反英運動の中心になって、
さらには1919年のアムリットサルの大虐殺以降、
独立運動を大きくリードしてゆく。





ガンディーは、自分が先導する闘争を、
サティヤーグラと呼び、運動を組織した。
サッティヤ(Satya)は愛、
アグラハ(Agraha)は断固としていること。
つまり、サティヤーグラハとは、愛と揺ぎない自信とともにある運動である。
逆に言えば、暴力は要らない。
なぜなら、暴力は、英国の側にあるものだから。
しかし、ガンディーの不服従主義は、まさに、徹底的な抵抗のあり方だった。
ガンディーは言った、
「わたしたちは日々、少しづつ強くなっている。
サッティヤーグラもまた、日々、より強くなってゆくだろう。」




ガンディーはインドに膨大な支持者を作っていった。
インド人たちは、まさにガンディーこそが理想の人、
とおもわずにはいられなかった。
とはいえ、インド人全員がガンディーを支持したわけでもなく、
たとえばマラータ族は、ガンディーに敵意をもっていたし、
南インドでの支持も低かったらしい。
そしてムスリムにガンディー支持者は少なかった。
ガンディー自身は、ヒンドゥーとムスリムを分けることなく、
ただともに力を合わせて独立を願ったけれど、
ただし、ガンディーの衣服、ふるまい、語り口、
そのすべてはあまりにヒンドゥーそのものだったから。
しかも、ヒンドゥーにしても、都市部のインテリは、
ガンディーに批判的な人が多かった。
じっさいガンディーの菜食主義、非暴力までならともかく、
ガンディーが望む機械文明を捨てた社会に、
未来などあろうはずもなかった。
しかし、それであってなお、ガンディー以上に、
インド人の心を束ねることができる政治家など、
ひとりもいないことは誰しもわかっていた。
インドを英国から自立させるにあたって、
ガンディーほど有能な人はいなかった。






じっさい多くのインドの民衆がガンディーに従った。
1920年前半の半年で、200のストライキが起こり、
百五十万人の労働者が参加したことも、
ガンディーの影響を抜きには語れない。
そう、ガンディーは、徹底した非暴力主義で、
英国を窮地に追い込んでいった。






英国インド省およびインド総督にとって、
ガンディーをどう扱うかは、つねに悩ましい問題だった。
なぜなら、ガンディーの主張する非暴力主義は、
英国政府にとって(も)都合の良いことだったけれど、
とはいえ、反英運動が一定以上に盛り上がるのも困る。
しかしながら、
ガンディーを反逆罪で牢屋へぶちこむことで、
インドに反英運動の騒乱が起こっても困る。
なにしろガンディーには多くの支持者がついていたから。






けっきょく、英国は、1922年3月18日、
ガンディーを裁判にかけ、
大衆扇動罪によって、懲役刑で6年間牢屋へぶち込むことを決定した。
ガンディーは、誇り高く、毅然と、裁判の結果を受け入れ、
かれが聖者であることを決定的に印象づけた。
しかし、それであってなお仮に英国の側に立ってみれば賢明な措置で、
なぜなら、ここでいったん第一期サティヤーグラ運動は消滅したし、
もしも、このとき英国がガンディーを牢屋へぶち込まなかったならば、
インドの独立は、二十年、早かった可能性がある。






つづく  →  http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/53488/
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