ローラット法(治安維持法)と惨劇
紳士の国を標榜する英国による植民地統治が、
どうしてこんな傍若無人な大虐殺をひき起こすのだろう?
英国は第一次世界大戦が終われば、
インド人自治を約束したにもかかわらず、
しかし、英国は戦勝国の一員になったにもかかわらず、
インド人の自治はいっこうに拡大しなかった。
インド人たちのあいだに不満が広がった。
インドの自治を求める運動が盛り上がった。
すると英国は、1919年3月、通称ローラット法なる、治安維持法を通した。
すなわち、英国当局が、騒乱時の令状なしにインド人を逮捕して、
裁判なしに投獄していい、という法律である。
この法律の制定をリードしたのが、
シドニー・ローラット (Sydney Rowlatt) だったため、
ローラット法と呼ばれるそうな。
当然のことながら、このローラット法への反対の声は高まった。
ガンディーは、4月6日に、全国統一ストライキを組織した。
しかも扇動者は、ガンディーのみならず、多くのインド人にまで広がっていた。
こうした現実が、英国を狼狽させ、
インド統治においては強権をもって当たるほかない、という考えをもたらし、
結果、あの血まみれの、ジャリヤーンワーラー・バーグ事件
The Massacre At Jallianwala Bagh
(=アムリッツァルの虐殺 Amritsar Massacre)
を生むことになる。
いや、もう少していねいに話そう。
1919年4月13日、パンジャーブ州アムリッツァルは、シク教の聖地であり、
この日はインドの、ボイシャキ祭(VaisakhiまたはBaisakhi祭)であり、
冬が終わって春の到来を祝う、ヒンドゥー暦の正月祭、
歌あり、踊りあり、ごちそうありの、たのしいお祭りである。
しかもシクにとってこの日は、
シクの大きな宗派であるところのカールサーKhalsa
(ターバン巻いて、一生に一回も髪を切らず、髭を生やしている宗派)の祭りでもあるゆえ、
アムリツァルでは、ふたつのめでたさが一緒にやってくるわけで、
なんとも盛大で、賑やかなお祭りになるそうな。
その祭りのなかで、スワデーシー(われわれの国インド運動)すなわち自治の要求と、
ローラット法に対する抗議集会もまた開かれた。
集まったのは、ごくふつうの街の人たちばかりだ。
この集会に対して、
英国人のレジナルド・ダイヤー Reginald Dyer 将軍率いる
ブリティッシュ・インディアン・アーミーが乗り込んできて、無差別射撃した。
グルカ族とムスリムからなる兵隊たちは、
避難する人々の背中に向けて銃撃を続けた。
ボイシャキ祭の平和な集会は、血の海に変わった。
当時のジャリアナワラ・バーグはまん中に井戸があるだけのなにもない広場で、
四方を高い塀に囲まれていた。
市民たちは逃げることができず、やむなく井戸に飛び込んで、溺死した者も多数いた。
大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人の英国人が殺害された。
戒厳令が発令された。
インド人400人が死亡、1,500名以上が負傷した。
翌日、ダイヤー将軍は命じた、
英国人女教師が襲われた現場では
インド人は償いとして「四つん這いで、這って歩け」。
さらにかれは命じた、
インド人が英国人に対して、失礼な態度を取ったときは、
公開・鞭打ちの刑に処す。
なお、レジナルド・ダイヤーは、現在のパキスタンのMurreeで生まれた、
ブリテイッシュインディア育ちの英国人だった。
推察するに、「植民地育ちの二流英国人」という、ねじまがった自意識が、
かれに、(育ちが悪く、根性もまた卑しい、最低のサディストの)、
サドプレイさながらの命令をインド人たちに出させしめたのだろう。
バーバラ・D・メトカーフ +
トーマス・R・メトカーフ著『インドの歴史』創土社刊2006年によると、
英国インド省は、ダイヤーを罷免したが、
しかし、英国に帰国したダイヤーは凱旋将軍のように迎えられ、
三万ポンドの報奨金を与えられたそうな。
暴動は一気に収束したものの、
インドの反英運動は激化することになった。
ガンディーは、インド政府を「悪魔の政府」と呼ぶようになった。
つづく →
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/53483/目次
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