インド総督カーゾン、ベンガル分割案で、インド人たちを怒らせる
インド側に立って、
ブリティッシュ・インディアの歴史を読むとき、
悪名高い総督といえば、なんといっても、
インド総督ジョージ・カーゾン George Carzon 卿ではある。
かれは教養ある、有能な政治家であり、
しかもかれは若い頃から東洋への関心と愛着を持ち続けてもいた。
かれは政治家の仕事を愛し、寸暇を惜しんで働き、
その上、かれの人生は美女たちとの恋愛に彩られてもいて。
そしてそんなかれの資質とまったく矛盾することなく、
かれはインド統治にあたって、
(一見バランス感覚に富んでいると見えるときでさえ、ひそかに)、
ひじょうにサディスティックだった。
かれが着任した頃、ベンガルは反英運動でもりあがっていた。
なにしろ、ベンガルは、ムガル帝国時代からの歴史のある州で、
さらには1757年プラッシーの戦いの後は、
州都カルカッタは、英国東インド会社の拠点。
しかも、ブリティッシュ・インディアにあっては、
インド総督職の拠点である。
そのベンガルが反英運動で盛り上がっては、ひじょうに困る。
そこでカーゾンは、ベンガルで盛り上がる反英運動の火を鎮火するために、
その力を分散させるべく、
1905年、大英帝国お得意の分断工作で望み、
ベンガル州を宗教で分割した。
かれの思惑においてそれは、
インドの国民学派のインテリどもとインドの大衆のあいだの、
連帯の可能性を絶つことでもあった。
具体的には、カーゾンは、
ベンガル東部とアッサム地方を「東ベンガル州」として新設し、ムスリムの州にして、
他方で、ベンガル西部とオリッサ州とビハール州を合わせて「西ベンガル州」を新設し、
ヒンドゥーの州にした。
ところが、これが全インドのナショナリストたちを心底怒らせた。
カーゾンの思惑とは裏腹に、反英運動は手がつけられないほど燃え広がっていった。
結果、カーゾンは辞職し、英国へ戻った。
インド総督時代のカーゾンの写真を見ると、
まるでトランプの騎士のように、ゴージャスな衣装を着ていて、
しかもその衣装は東洋趣味に彩られている。
おそらくカーゾンの趣味だろう、と、おもわずにはいられない。
なお、カーゾンは、ベンガル分割の悪名が高いものの、
他方、その頃、荒れ放題だったタージ・マハルを、
整備し、現在の姿に整えもした。(推定するに、
タージ・マハルの前庭が英国庭園ふうなのは、カーゾンの趣味だろう。)
また、TATAの創業者が、インドの、インド人による、インド人のための製鉄所を
作りたいという願望に、カーゾンは援助もしたそうな。
おそらくカーゾンは、この時代の英国人が多かれ少なかれ使い分けていた、
インドについての建前と本音が、
いずれもきょくたんに戯画化されたように露呈している人物だったのではなかったかしら。
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ティラク(1856~1920)は、
国民会議派内の急進派の指導者として、
ベンガル分割令反対闘争(1905~08)を指導した。
1906年、ティラクたちは、
カルカッタで開かれた国民会議派の大会で、
英貨排斥(英国商品のボイコット)、
スワデーシ(国産品愛用)、
スワラージ(自治獲得)、
民族教育の4大綱領が採択した。
そしてスワデーシ、そしてスワラージは、
インド民族運動のスローガンになっていった。
もちろん英国にとっては嫌な展開である、
なんとかこの運動の熱を冷まさなくてはいけない、
そこで英国は、1906年、全インド=ムスリム連盟の結成を支援し、
国民会議派からムスリムの脱退を勧めた。
1907年、英国は、ティラクを、反政府扇動罪で、
ビルマ・マンダレー刑務所にぶちこんだ。(1908~14)。
しかし、これがまた反英運動の火に油を注ぐ。
そんななかチャールズ・ハーディングが
第13代インド総督として、就任し、
インド皇帝として(!)インドを訪れ、
ベンガル分割令の取り消しを宣言した。
こうしてベンガル州を再統一し、
ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与え、
いわば妥協案に落ち着いた。
さらには、ジョージ5世とメアリー王妃がインドを訪問し、
デリーで、戴冠式典をおこない、
その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。
もちろんこれ以上、ブリティッシュインディアが、
ベンガルのカルカッタを拠点とすることは、
英国にとって危険すぎたからである。
つづく →
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