バール・ガンガーダル・ティラク
インドの独立運動というと、
ガンディーばかりが有名だけれど、
ガンディーに先立つ世代に、バール・ガンガーダル・ティラク
Bal Gangadhar Tilak がいた。
かれは、聡明そうな広い額、鼻の下に髭を生やし、
白いドーティタルカを着て、
いかにも伝統的なヒンドゥーの男のイメージである。
かれはインド最初のフリーダムファイターである。
バール・ガンガーダル・ティラクは、1857年インド大反乱の一年前に
マハラシュートラの小さな村に、、ブラミン(=バラモン=僧侶階級)の家系に生まれた。
かれは、インドの大学で近代教育を受けた最初の世代のひとりであり、
かれはプネーにあるデカン大学でインド学、数学、天文学を学んだ。
卒業後かれは、プネーで数学を教え、
その後は、ジャーナリスト、社会改革者になってゆく。
ティラクは理解していた、インドにはインドが存在せず、
存在するのは、さまざまな宗教、地域、階層の、
無数の小グループだった、
パンジャーブ、ベンガル、マドラスにおいても事情はそれほど変わらなかった。
しかも義務教育もなく、識字率も低い。
これではインドが英国と闘っても勝てるわけがない。
まずは、インド人の心をひとつにまとめることだ。
ティラクは、一方で1881年英字新聞『マラーター』を発刊し、
他方、1893年のガネーシュ・フェスティバルを成功させた。
かれは、1890年、インド国民会議派 Indian National Congress に加入した。
ティラクは、1895年のシヴァージーの祭りを盛大におこない、
ヒンドゥーナショナリズムを盛り上げ、
そして少しづつ、人々の関心を政治に惹きつけた。
1896年には飢饉が起こり、しかもボンベイでは、
インフルエンザが流行した。
このとき、大英帝国は、インフルエンザの拡大を防ぐため、
住民を疎開させた。
ところが英国人側は、インド人たちの信頼もないままに、
じゅうぶんな説明もおこなわず、人々を疎開させようとしたため、
インド人たちの反感を買い、
1897年には、伝染病対策官のウォルター・ランドが、暗殺された。
この暗殺事件について、ティラクは文章を書いた。
英国は、かれを煽動罪にかけ、
ティラクは、8ヶ月間の懲役に服した。
ティラクが刑務所から出所して来たとき、
かれは、民衆に、悲劇のヒーローとして崇拝された。
ティラクは言った、
”Swaraj is my birthrights, and I shall have it!”
「スワラージ(自治)、それは持って生まれた権利。
わたしは、スワラージを要求する」
このスローガンが、インド人たちを熱狂させていった。
ティラクは、okmanya を説いた、
それは "Beloved of the people"
あるいは、 "Revered by the world"
人々に世界に愛されること。
ティラクはその後も、独立運動をリードしてゆく。
ティラクは、ヒンドゥーでインドをまとめてゆこうとした。
ただし、インドには多彩な民族がいて、
ヒンドゥー教の信徒もまた、
インド・アーリヤ系民族、ドラビダ系民族、
チベット・ビルマ系民族などさまざまで、
したがってヒンドゥー主義で、民族独立運動をおこなうことには、
もともと矛盾をはらんでいた。
とはいえ、この時代に、インド独立運動に、
それ以外に、いったいどんな方法があっただろう。
つづく →
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