『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(22)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

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イルバート法案の廃案とインド国民会議派の誕生






かつて英国人にも、
インドに偉大なる古代文明の夢を見た時期があった。
しかし、いつしか英国人は、自分たちを文明国の紳士であると確信し、
他方、インド人を、バカで、怠惰で、スケベで、大酒飲みで、
英国の下層民とまったく同じタイプのろくでなしどもである、
と心底おもうようになっていた。
それであってなお、英国人は、
文明を持ち、教養にあふれた自分たちは、
インド人は、まだ人間以下であるゆえ、
かれらが悪いことをしたら厳しく罰するけれど、
しかし、罰するばかりではなく、
インド人が文明的で文化的な<人間>になるように、
きちんと教育し、導かなければならない、
自分たちはその責務を負っている、と、おもってもいた。
だからこそ、英国人はカルカッタ、ボンベイ、マドラスに大学をこしらえ、
ヨーロッパ式の教育をはじめたのだ。
むろんそこには、
自分たち英国人がおこなうインド統治を補助する、
知的なインド人を育てる必要があったとはいえ。





かれらが大学を作って、27年が経っていた年、
イギリス人のインド総督リポン Lord Ripon は、
1883年、「イルバート法案」 Ilbert Bill を提出した。
これは、インド人判事がヨーロッパ人容疑者を裁くことができるようにする法案で、
リポンは考えたのだ、インド人にも段階的に権利を与えてゆくべきだ、
そしてそろそろインド人に、その程度には権利を与える段階だろう。




むろんインド人たちはイルボート法案を熱烈に歓迎した、
しかし、インド在住ヨーロッパ人たちは猛烈に反対した。
まずグリフィス・エヴァンス、
ベンガルで、紅茶とインディコのプランテーションを経営している男が大反対した。
かれは臆することなく主張した、
もしもインドの裁判官が裁判をしようものなら、
インドの労働者たちが虐待されている現実を、けっして見逃さないだろう。
他にもインド在住ヨーロッパ人たちはこぞって反対した、
しかも、またしても、かれらは、
1857年のインド大反乱のとき、
インド人がイギリス女性たちを陵辱した悪夢をおもいだし、
まるでインド人が裁判官になることが、その悪夢を助長するかのように、
ヒステリックに反対する者さえいた。





これはいかにも転倒した意見であって、
なぜなら、英国人が統治しているインドが、
それこそかつての南アフリカのように、
白人優遇を前提とした社会であり、
インド人差別を前提とした社会なのである。
にもかかわらず、多くの英国人は、
その差別をとうぜんのものと見なし、
逆に、インド人裁判官など「ありえない!」と反対するのだった。





リポンも、そしてリポンのふさふさで立派な顎髭も、
ブーイングの嵐に吹かれた。
ここまで反対されるとリポンも、
イルバート法案を廃案にせざるえなくなった、
政治家も人気商売、タレントと同じだもの、
ブーイングの嵐のなかで、ショウは続けられない。













このイルバート法案の廃案が遠因となって、
英国側は、(インドの知識人層を懐柔するため)、
1885年12月、諮問委員会として、
インド国民会議派 Indian National Congress の結成をうながした。
1885年、イギリス領インド帝国のボンベイで、
72人の代表を集めて第1回の会議が開催された。
この会議には、イギリス人官僚、
アラン・オクタヴィアン・ヒューム Allan Octavian Hume が参加し、
かれは、国民会議派の発案者のひとりであり、
インドにおける人種差別的行政に憤っていた。
また、インド人初のイギリス下院議員となった、
ダーダーバーイー・ナオロージーも参加した。
とはいえ、当初は、当時のインド総督の承認のもと開催され、
年末の4日間だけ活動する程度のものであり、
しょぼい団体だったものの、
しかし、1690年、インド最初のフリーダム・ファイター、
バール・ガンガーダル・ティラク
Bal Gangadhar Tilak。1856年-1920年)が参加してからは、
がぜんインド人たちの心を動かすようになっていった。







つづく → http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/53001/
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