『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(21)』ジュリアス・スージーさんの日記

レビュアーのカバー画像

Eat for health,performance and esthetic

メッセージを送る

ジュリアス・スージー (男性・東京都)

日記詳細

1873年の大恐慌






いまや大英帝国にとってインドは、
自分たちの領土の一部であり、
富の源泉であり、それでいて、
他方で、そのインドは、いついかなるときに、
自分に襲いかかってきて、自分を殺しかねない、
そんな両義的な存在になっていた。
文学的に言えば、<わたしのなかの他者>である。
だからこそ、大英帝国は、
ありとあらゆる工作をして、
インド人の怒りが大英帝国にではなく、
むしろ他のインド人に向かうように、
争い合うように仕向けた。
ヒンドゥとイスラムが共闘して、
大英帝国に反逆するなど、
二度と起こってはならないことだった。
英国人の恐怖が、インド文化を、
さまざまに分断していった。





しかし、そういう英国人のトラウマ政治とは
まったく別のところで、
現実の底は抜けてしまった。
1873年5月1日、
ウィーン万国博覧会が、
ヨハン・シュトラウス自らの指揮の
『美しき青きドナウ』の演奏とともにはじまって、
その4日後の金曜日、株価が大暴落し、長く続く世界大恐慌に至った。
1873年の大恐慌、the Great Depression と呼ばれた。
大恐慌の原因はたんじゅんではないにせよ、
ひとつは、ドイツが普仏戦争に勝利し長年の恨みを晴らし、
敗戦国フランスは、200万ポンドの賠償金を押しつけられ、
投資バブルだった株式市場が荒れたこと。
ふたつは、アメリカも、イギリスも、
鉄道の過剰な建設によって、先行きの不安が増していたこと。
いずれにせよ、この世界大恐慌で、
多くの製鉄所が破産に追い込まれた。
英国の失業率は増大、繊維産業も没落、
ポンドは、基軸通貨の座から脱落した。








もちろん英国はあせった。
いま、やるべきことは、既得権益の強化、
すなわち、まず第一に、インド統治の強化である。
そこで、1875年、大英帝国は、
まずはエジプトから、スエズ運河の領土を買って、
次に、大英帝国はスエズ運河警備という名目で、
軍隊をエジプトに駐屯させ、エジプトを事実上支配した。
それはもはや、大英帝国のお家芸だった。
(この1875年は、ボンベイ証券取引所ができた年でもある)。





続いて インド総督リットン Edward Robert Bulwer-Lyttonは、
インド統治に女王の微笑を添えるため、
ヴィクトリア女王のインドでの式典を準備した。
1877年1月1日、デリーダルバート Delhi Durbart と呼ばれた。
デリーできらびやかな戴冠式典を開催され、
ヴィクトリア女王は、つめかけたラジャや豪族たち、
有力者たちに、自分がインド帝国の女王をも兼任することを宣言した。
(Delhi Durbart は、デリー園遊会くらいの意味かしら? 
なお、ネパール定食の dalbhat も、皿の上の「庭」みたいに見えるけれど、
まったく関係ない。)








さて、ヴィクトリア女王は、おごそかに語った。
わたしたちは確信してます、
いまこの現在の時が、親密な愛で、
わたしたち自身とわたしたちの主題を
結びつけるでしょう。
もっとも高きものから、つましさの極みまで、
わたしたちの法であるところの、
偉大なる自由、公平、正義の原則の下では、
すべてが守られていると感じられるでしょう。
繁栄のため、いっそうの幸福ため、
福祉は、永遠に続く課題であり、
目的です、わたしたちの帝国の。








女王陛下の王冠には、大きなダイアモンドが輝いた。
その名も、Koh-i-Noor(コヒノール)、
ペルシア語で「光の山」という意味の、
丸く削られた105カラット(21.6g)のダイアモンド、
それは歴史的に、
さまざまなヒンドゥーたち、ムガル、ペルシア人、
アフガン、スィクたちに争われてきたダイアモンドであり、
それがいま、ヴィクトリア女王の頭上に輝いたのだ。





なお、このときインドは飢餓にあえぎ、500万人が死んでいた。






つづく → http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/52942/
目次 https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/

ページの先頭へ