1853年、日本に黒船来襲
おもえば1857年インド大反乱に遡ること四年まえが、
1853年、日本近代史の大事件、ペリーの浦賀への来航だった。
ふたつの出来事に直接の関係はなにもないけれど、
ただし、インドの大反乱以降、
大英帝国(=ブリティッシュ・エンパイア)が、
政府による直接統治をおこないはじめることをおもえば、
欧米列強による植民地獲得競争という時代が浮かびあがる。
黒船来航をおもいだしてみよう。
威風堂々たる軍服に身を包んだ、熊のような、
アメリカのマシュー・ペリー総督は、
大統領フィルモアの国書をもって、
大砲を積んだ黒くてでっかい蒸気船の連隊で、浦賀に現れた。
全長70 m、幅12 m、スピード8ノット、
しかもでっかい大砲を二つも積んでいる。
いまの感覚で言えば、隅田川の水上バス「ヒミコ」の二倍の大きさで、
スピードは「ヒミコ」よりも遅いんだけれど、
しかし、当時の感覚ではミシシッピ号は驚異的かつ圧倒的だったろう、
(なにしろ、コロンブスからナポレオンの時代までは船の進歩はほとんどなく、
三本マストのカラベラ船のままだった)。
そしてペリーは、当時鎖国状態だった日本に要求をつきつけた、
「ニューイングランドの綿工業の利益拡大のため、
そして(ハワイを中心に行われていた)捕鯨の、寄港地として、
はたまた中国貿易の寄港地として、日本は開国して欲しい。」
日本に拒否権はなかった。
大国は、「憲法、民法、商法」、「税の体系」、
「銀行、債券、公定歩合の操作など金融のからくり」、
「産業革命以降の、安価な製品」、「海軍・陸軍の軍事力」、
一揃い揃っていて、その総合力で攻め込んでくる。
しかも、統治にあたっては、
(植民する相手国の人心をひとつにまとめず、
できるだけ紛争を起こさせる)、悪辣な、統治戦略まで持っていて。
しかもそこには、統治国の文化研究の知識さえもが、
その統治戦略をバックアップしてしまう。
この時期の日本には、まったく敵うはずもなかった。
日本は関税自主権さえ奪われたまま、
居留地貿易をおこなうように追い込まれ、
横浜、新潟、神戸、長崎、函館を開港。
それらの街には外国人たちが住みはじめる。
日本には憲法、民法もないゆえ、
領事裁判権さえ与えざるを得なかった。
インドや中国と同じ展開ではないか、
ではなぜ、日本が植民地にならなかったかといえば、
おそらくアメリカの思惑としては、
日本を植民地にしてしまうと、
ロシアを刺激してしまうゆえ、さすがに物入り、
すでにグレイト・ブリテンもフランスもドイツも、
ロシアを、クリミア戦争(1854 年~1856年)で、
一回やっつけているから、
ここでは、牽制してさえいればいい。
したがって、アメリカにとって、日本は、
わざわざ軍隊駐留させて、植民地にするよりも、
このまま良いお客さんでいてもらった方が好都合、
日本は綿製品でも、軍艦でもほいほい買ってくれるだろう。
これはアメリカのみならず、グレイト・ブリテンも同じで、
たとえば、後年結ばれる日英同盟1902年~1923年も、
かれらにとっては、ロシアへの牽制のためだったことだろう。
すなわち、ロシアの南下政策の尖兵たるシベリア鉄道に脅威に感じていたのは、
けっして日本だけではなく、ある時期までは、
米英ともその脅威を共有していた、ということなのだった。
それにしても英国が編み出した植民地経営のノウハウを、
欧米列強は、あっというまに共有していることに驚く。
しかも、大英帝国は、インドの大反乱以降、
植民地統治を、いかにも巧妙に「洗練」させてゆく。
つづく →
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