『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(17)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

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インドの大反乱、その後







大英帝国にとって、
1857年から1858年のインドの大反乱(=シパーヒーの反乱)は、
飼い犬に手を噛まれたようなものだった、
けっして、二度とあってはならないことだった。
もはや、私腹をこやしてばかりの、
東インド会社のろくでなしどもにまかせてなどおけない、
そこで大英帝国政府は、東インド会社を解散させ、ムガル皇帝を廃し、
ヴィクトリア女王が、インド皇帝を兼任するように決めた。





なるほど、現場のインド総督チャールズ・キャニング Charles Canning は、
額が広く、髪の毛がほわほわしていて、
シューベルトが政治家になって、
威厳を身につけたような印象で、
かれはインドの大反乱という恐怖の事態にあっても、
断固としてふだんどおりにふるまい、
しかもインド人にもヨーロッパ人にも報復を禁じたゆえ、
ヨーロッパ人たちはかれを、
Clemency Canning (お慈悲の缶詰屋)と呼んで憤慨したけれど、
しかし、そんなキャニングを舐めてはいけない。





まず最初に、大英帝国は、
ロンドンにインド省を置き、
現場は、英国人の総督がインド統治をおこない、
英国人が議会政治をおこなう。



と同時に、まず、大反乱の原因のひとつとなった、
「ラジャに摘出子がない場合、
養子を認めず、王国は東インド会社が併合する」という法律を廃棄し、
ラジャたちの500人あまりの地位を保証し、かれらの間接統治下に、
インドの人口の約3分の1を置くことにした。




次に、じっさいの統治はすべて英国人が、
英国人のためにおこなっているわけだけれど、
ただし、インドのラジャ(藩王)たちに税の徴収をゆだねることで、
インド人たちに、大英帝国統治の印象を薄めたのだった。




これはいかにも議会制民主主義と、中世的王権を見かけ上、共存させる
折衷的なスタイルながら、ただし、キャニングはこのスタイルで、
インド統治を成功させた。






さらに、キャニングは考えた。
大反乱の最大の問題は、
ヒンドゥーとムスリムがともに力を合わせて、大英帝国に立ち向かって、
共闘したことで、
こんなことは、あってはならないことだった。
そこで、キャニングは、シパーヒー(インド人兵)の民族構成を改変した。
スィク教徒、ジャート族、
ラージプートなどパンジャーブ人を重用した。
後にはパンジャーブ地方のムスリム、パターン人、
そしてネパールのグルカ人も含めつつ、
現地兵の半数をパンジャーブ人が占めるようになった。
こうした構成にした理由は、
かれらは異民族の混ぜ合わせであるゆえ、
それぞれ文化が違うゆえ、共謀することがないだろう、
と英国人が考えたからだ。
これがグレイト・ブリテンのお家芸である。
なお、この、傭兵の民族構成の改変については、
バーバラ・D・メトカーフとトーマス・R・メトカーフ著
『インドの歴史』(創土社刊 2006年)に教えられた。





しかも、この1857年インド大反乱の影で、
南インド、ボンベイ近郊ポンディシェリでは、
大英帝国と、フランス東インド会社が、
1744年から1761年にかけ、三度にわたって、
支配権争いの、戦争をおこなっていて、
そのカーナティック戦争 Carnatic Wars においても、
大英帝国がフランスを蹴散らした。
これにてインドは、
大英帝国の一国独裁体制が決定された。
こうしてインドは、British India にされてしまったのだった。





つづく →  http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/52550/
目次 https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/



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