『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(16)』ジュリアス・スージーさんの日記

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ジュリアス・スージー (男性・東京都)

日記詳細

1857年~1859年インド大反乱






そもそも英国東インド会社は、
1757年、インドベンガル地方で起こった
プラッシーの戦いを、鎮圧してからというもの、
それまでの貿易商売のみならず、
軍事統治機関になりあがり、
地税の徴収にのりだし、その統治システムは、
1800年代そうそうに完成していた。





植民地統治には軍隊が欠かせない。
軍人が睨みを効かせてこそ、治安が護れる。
当時インドの軍隊は、
英国軍人、3万8000人。
インド人傭兵(シパーヒー)が20万人。
なお、ヒンドゥーも、ムスリムもいる。
ヒンドゥーの場合は、カーストの上位から雇っていて、
かれらは育ちも良く、睫も長く、瞳は大きく、背が高い。
制服もまたかっこいい。
なるほど、たしかにそういうのは大事なことだ。





なお、英国東インド会社のやり方はえげつなく、
ムガル帝国の勢力を牽制するために、
「ラジャに摘出子がない場合、
養子を認めず、王国は東インド会社が併合する」
そんな政策を導入した。
これによって、1856年北インドウッタルプラデーシュ州を統治していた、
アワド王国 Awadh は滅亡し、
アワド王国出身の多くのシパーヒーたちを怒らせた。



それでなくても、英国人とシパーヒーの給与が、
激しくきょくたんなまでに格差があることへの怒りもあった。
しかも、この時期、シパーヒーたちには漠然とした不安があった、
(ブリティッシュたちは、
インド人たちをキリスト教に改宗させたがっているのではないか)。
しかも、そんな不安を上塗りするように、こんな噂が流れた。
かれらシパーヒーに配給されるライフル銃の薬包に、
ヒンドゥーが神聖視する牛(の脂)と
ムスリムが不浄とみなす豚(の脂)が使われていて、
この銃がシパーヒーにも配備されるらしい、という噂が。
じっさいエンフィールド銃は、
紙製の薬包を使用していて、
この薬包には防湿油として牛と豚の脂が塗られていた。
この薬包を使ってエンフィールド銃を装填する際には、
まず口で薬包の端を食いちぎって、火薬を銃口から流し込み、
弾丸と弾押さえ(薬包を口中で噛んで柔らかくしたもの)を
押しこまなければならない。
つまり、牛の脂と豚の脂を口に含むことになる。
しかも後の調査で、その噂は真実だったことが証明されているそうな。







ヒンドゥーもムスリムも怒った、
あたりまえである、イギリス人に自分の信仰をコケにされているのだから。
しかも、もしもこの噂が本当であれば、かれらは、
戦闘のときに、牛または豚を口にして、
それぞれ神への禁忌を犯すことになってしまう。
ヒンドゥーは言った、
「もしもそんなものに触りでもしたら、
おれはもはや誰からも触れられず、
誰からも話しかけられもせず、
誰かとともに食事もできず、
自分が死んでも、埋葬すらさせてもらえない!」
誰がそんなことを望むだろうか。
とうぜんかれらはその弾薬を拒否した。







しかし、ブリティッシュたちは、そんなかれらを罰した、
むりやりにでも、かれらにタブーを犯させたいとでも言うように。
そこでシパーヒーたちは、
ついに、1857年5月10日、反乱を起こした、
まず、デリーの北東にあるメーラト Meerut という都市で。





メラートの反乱部隊は、翌11日デリーに到着し、
デリー駐留のシパーヒー部隊を味方につけて、
駐留イギリス軍を駆逐、デリーを占拠した。
かれらは宣言した、バハードゥル・シャー2世こそが、
インドの正当な皇帝である。
バハードゥル・シャー2世は、反乱軍に担がれて、復権宣言した。
(なお、バハードゥル・シャー2世は、当時82歳の老帝で、
しかもかれは東インド会社からの年金で暮らしていたのだけれど)。





さぁ、大反乱がはじまった。
民衆の怒りは激しかった。
旧王侯、旧地主、農民、都市住民らが、
宗教・階級の枠を越えて、立ち上がった。
かれらの蜂起とともに、ガンジス平原、中央インド、
ウッタルプラデシュ州、ビハール州、
マディアバラド州北部などで、
多くのインド人たちが立ち上がった。
“インドのジャンヌダルク”ラクシュミー・バーイーは、
騎兵を率いて活躍した。





しかし、反乱軍はまとまりを欠いていて、
指揮系統が弱く、戦術を欠いていた。
1857年8月あたりから、デリーの反乱軍は劣勢になり、
9月になると、イギリス軍のデリー総攻撃が始まった。
19日にバハードゥル・シャー2世は、王城レッドフォートから逃げ出し、
その後イギリスに投降した。
こうしてデリーにおける大反乱は4ヶ月で終結した。






インド総督 Governor-General of Indiaたる
チャールズ・キャニング Charles Canning  は、
額が広く、髪の毛がほわほわしていて、
シューベルトが政治家になって、
威厳を身につけたような印象がある。
キャニングは、内心の狼狽を隠し、
あくまでも冷静に、
あたかもふだんどおりであるかのように事態に処した。
それはヨーロッパ人たちを呆れ、憤慨させ、
ヨーロッパ人たちはかれを、
Clemency Canning (お慈悲の缶詰屋)と呼んだけれど、
しかし、後年のインド人さえもが賞賛する、冷静な態度だった。
チャールズ・キャニグ卿は、あくまでもふだんと同じようにふるまうことが、
動乱のときにあっては、もっとも大事であることを心得ていた。




キャニングは、イギリス人に対しても、インド人に対しても、等しく報復を禁じた。
チャールズ・キャニングは理解していた、
本当に必要なことは、
これまでのようにイギリス人たちが、インド人たちのなかに憎しみを作り出し、
インド人兵士の反乱に根拠を与え、統一さえ与えさえしている現実を、
一刻も早く終えることだ。
なお、これについては、ネットにある、北海道大学の中村研一さんの論文、
『帝国主義の統治理性ーチャールズ・キャニングとインド大反乱』に教えられた。






むろんそんなキャニングとて事態の収束にあたっては冷酷を発揮し、
シパーヒーたちにエンフィールド銃を大量に配備し、
かれらは、ボロい銃しか持っていない反乱軍を、がんがん殺していった。
しかもかれらは、見せしめのために、
インド人を大砲の前に立たせ、大砲をぶっ放っしもした。





その後、大反乱は地方に飛び火し、
カーンプルやアワド、ビハールなどで反乱地方政権が発生した。
カーンプルでは、マラータ王国最後の将軍ナーナー・サーヒブ Nana Sahib 軍が、
英国人女性たちを陵辱し、コドモたちも殺し、
遺体を井戸に投げ込んだ
はたまたジャーンスィー王国では、
王妃ラクシュミー・バーイーの抵抗が、
1858年4月まで続いた。







結果、反乱軍は、すべて個別撃破され、反乱は鎮圧された。
ネルーは、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)のなかで語っている、
英国人は、何千人ものインド人の死体を樹に吊り下げた。
英国軍は、バハードゥル・シャー2世を逮捕し、
ミャンマーのヤンゴンに流刑し、そこでかれは死んでしまった。





これが、インド大反乱 Indian Rebellion of 1857 の全容である。
英国ウィキペディアによると、
インドの作家と歴史家Amaresh Misraは『ガーディアン』紙に語ったそうな、
「それはホロコーストであり、かれらが勝利する唯一の方法は、
町や村の全人口を破壊することだった、
それはまさに大英帝国による大虐殺だった。」
英国人女性もコドモも無差別に銃撃され、死者は400人にのぼった。
他方、インド人の死者数は、最近の研究では、十万人と考えられているようだ。





この反乱は、かろうじて残っていたムガル帝国を完全に崩壊させるとともに、
英国東インド会社250年の歴史に幕を下すことにもなった。
あたりまえである、こんな事態まで起こしてしまうようでは、
かれらに統治能力がないことは明白だった。
そしてこれ以降、グレイトブリテンは、
理想的インド統治について模索しはじめたようだ。





他方、インド人たちにとっては、
インド独立のための長い長い闘いのはじまりとなった、
とはいえ、この圧倒的なイギリス統治に抗って、
インド独立運動がようやく姿を現すまでには、
なんと、それから半世紀の歳月が、必要だった。








つづく→  http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/52450/
目次 https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/
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