ヴィクトリア女王の贅沢と、アヘン戦争
1800年代には、インドは奪われるだけ奪われて、
すっかり病弊していたけれど、
他方、英国はアイルランドを併合して、
ユナイテッド・キングダムになりあがり、
アイルランドの景気がどうだったかは知らないけれど、
少なくとも、例の大きい島の方は、
ゴージャスでグラマラスだった。
なるほどど、かの国は、階級社会だし、
たとえば当時の少年労働者の労働時間は長く悲惨だったとはいえ、
それでもおおむね全階級、ゆたかな暮らしをたのしみはじめていた。
(もっとも、そのユナイテッド・キングダムだって、
1840年代の十年は飢餓の時代を迎えるのだから、
資本主義は構造的に不安定を抱え込んでいる。
もっとも、飢餓がきても、恐慌がきても、たいていは半年やそこらで、
ふたたび立ち直るとはいえ。)
イングランド人は、世界に先駆けて市民社会を作ったにもかかわらず、
それでいて王室が大好き。
1837年、18歳のヴィクトリアが女王陛下になった。
ヴィクトリア女王は、若くて、綺麗。
コルセットで胴を締めあげ、
胸を強調し、鳥籠のようなパニエでスカートをふくらませた、
花のような裾広がりのルイ王朝ふうのドレスを着て、
大好きなガーネットの髪飾りをつけ、
中国趣味の翡翠のブローチをつけ、
ウィンザー城の、
あられもなくフィレンツェ・ルネサンスふうの、
壁も天井も絵画でいっぱいの廊下を歩いている。
そしてウィンザー城には
いかにも七つの海を制覇したグレイト・ブリテンらしい、
世界中の「良い趣味」が集まり、
緑の芝生の輝く庭園には、無数の薔薇が咲き乱れる。
かれらがイメージする贅沢ってのも、
どことなく精神分析をしたくなるような傾向があって。
たとえばイギリスは年柄年中フランスと戦争している癖に、
ドレスは、マリー・アントワネットふう。
かれらは、英国国教会の信徒としての誇りを持ち、
怠惰で自堕落でカトリックなイタリア人を見下している癖に、
イタリア人をまねして、壁や天井を絵画で埋め尽くさずにはいられない。
それからまたブリティッシュ・ガーデンってのも、
(フランス式でもなく、イタリア式でもなく)っていう折衷様式。
それからまたヴィクトリアにも東洋趣味があって、
ハンガリーの中国趣味な絵柄のティーカップを好きになったりする。
もっとも、東洋趣味は、ロマン派の時代に、
ヨーロッパがいっせいにかかった熱病だった。
ブリティッシュたちもつい中国家具を買っちゃったりして、
紅茶を飲みながら、『アラビアン・ナイト』のページをめくったりしたもの。
もっとも、だからといってヴィクトリア女王が、
贅沢好きの女王だったわけでもなく、
彼女はむしろ家族と一緒にスコットランドで過ごす時間が好きだったそうだけれど。
さて、ここから先はヴィクトリア女王とは関係ないけれど。
この時期、イギリスは、
中国は「そんなもんは要らない」
って言っているにもかかわらず、
まぁ、まぁ、そんなことおっしゃらずに、
なんちゃって、わざわざ戦争を仕掛けてまで、
芥子の実を中国にプレゼントした。
これが世に言う、阿片戦争である。
こんな経緯があった。
グレイト・ブリテンは中国に朝貢して、
お茶と絹と陶器を買っていた。
なお、東アジアの漢字文化圏の国々が中国に朝貢するのはともかく、
大英帝国が中国に朝貢するとは、
いかにも奇妙で、また朝貢という言葉にもそぐわないけれど、
とはいえ、中華思想の中国ゆえ、そうだったのだろう。
さて、朝貢は、貿易とは名ばかりで、
貢物を差し出し、礼として物品をたんまりいただく形式、
面子さえ捨てれば、けっこうな取引ながら、
とはいえ、いわゆる貿易とは違うゆえ、
なにかと制限があって、
かれらはもっともっと欲しいのに、しかしけっして欲しいほどには、買えない。
しかも、かれらには、中国人が欲しがる英国製品がなかった。
やむなくかれらは銀を払う。
かれらは考えた、お茶と絹と陶器はもっと欲しい、
しかし銀は払いたくない。
とはいえ、中国人の欲しがるものは持ってない。
なんとか中国人の欲しいものはないものか。
そこでイギリス人がおもいついたのが、opium 阿片だった。
当時、阿片は、ロンドンでは鎮静剤に使われもすれば、
むずがるコドモを鎮めるために使われもしていた。
しかもインドでも医療の一環として使われてもいた。
とはいえ、阿片は麻薬で、たしなめば、幻覚を作り出す。
ロマン派詩人のコールリッジは、
阿片をたしなんで、
『クーブラカーン(Kubla Khan)』なる詩を書いている。
ウィリアム・ブレイクの、絵と詩が、
阿片抜きとはとうていおもえない。
しかも阿片中毒 opium habit になれば、
不眠、知覚過敏、震えが訪れ、もはや廃人だ。
イギリス人とて、多くの廃人を見ただろう。
しかし、どうやら当時はまだ薬学の知識がとぼしく、
相関関係も因果関係もわからなかった。
(薄々勘づいてはいただろうけれど)。
ブリティッシュたちは、ベンガルで、
インド人が食べるために作っていた畑を潰させ、
砂糖、小麦のみならず、阿片を作らせ、
その阿片をカルカッタから、中国に輸出することに決めた。
英国は、1793 年、インド阿片の売買を東インド会社の専売制にしていた。
(ただし、すでに1833年、東インド会社は貿易活動を停止していた)。
最初、中国はアヘンを拒否したのだけれど、
しかしイギリスはあれこれ因縁をつけて、
中国に戦争を仕掛けてまで、阿片を押しつけた。
上海、寧波、福州、廈門、広州を開港させ、
香港を奪い取り、賠償金までせしめ、
その上、関税自主権を放棄させ、
英国領事裁判権を認めさせた。
その後、かれらは、
ビルマ(ミャンマー)も、シンガポールもわがものにした。
なるほど、資本主義は、
つねに膨張と拡大をすることを運命づけられているゆえ、
イギリスの中国侵略も当然のことではあったろう、
(侵略手法のえげつなさはともあれ)。
と同時に、この阿片戦争は、
ロマン派文学の東洋趣味と自我の拡大への夢のアマルガム、
そして、資本主義の拡大、さらには、
ブリティッシュたちのチャイナへのサディズム混じりのファンタズムの、
悪夢のような、アマルガムではなかったか。
大英帝国で、反・阿片運動が起こったのは、
1870年代のことだった。
つづく →
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