プラッシーの戦い
英国東インド会社によるインド商売250年のなかで、
大きな転換となったのは、1757年、プラッシーの戦いである。
それは、ベンガル地方プラッシーで、
ベンガル、オリッサ、ビハールで、最後のナワーブ(太守)となった、
シラージュッ・ダウラ Siraj ud-Daula が、
英国東インド会社へ起こした壮絶な反乱だった。
英国東インド会社はこの反乱を鎮圧したものの、
その衝撃の大きさは計り知れない。
なぜならば、プラッシーの戦いの後、
英国東インド会社は、インドを軍事統治しはじめ、
税の徴収をはじめ、
やがてそれまでの貿易商売が霞むようになるのだったから。
早い話が、日本の商社・丸紅が軍隊率いて、中国全土を統治しはじめたような展開である。
いったいなんでまたこんなことが起こりえただろう。
まず、このプラッシーの戦いの、全容を考察してみよう。
すでに英国東インド会社は、
わがもの顔で、インド支配を拡張していた。
最後のナワーブ、24歳のシラージュッ・ダウラ Siraj ud-Daula は、
ブリティッシュの数々の横暴に怒り、制裁をおこなうことを決意した。
シーラジュッ・ダウラは、
かれの都ムルシダーバードを出て、南下し、
カルカッタを占領し、
英国人捕虜を146名、暗く狭苦しい部屋にぎゅうぎゅうに閉じ込め、
その結果、英国人123人が窒息死したという。
(ただし、Black Hole of Calcutta と呼ばれるこの事件の信憑性は怪しいとの説も多い)。
これを受けて、イングランド人軍曹、
ローバート・クライヴ Robert Clive は、
シーラジュッ・ダウラに復讐するため、
事前に前ベンガル太守のミール・ジャファールに賄賂を送り、
事情聴取をしておいて、
そして、自分の組織する三千人のイギリス軍を率い、
シーラジュッ・ダウラ率いる五千人のベンガル軍と戦い、
かれらは火縄銃、槍、矛、大砲で武装していたにもかかわらず、
やすやすと勝った。
(なお、ベンガル軍にはフランスが支援していたゆえ、
この戦争の後に、インドにおけるフランスの影は薄くなった)。
この1757年の、プラッシーの戦いは、事後的に見て、
3つの意味で重要なできごとになった、
ひとつは、イギリス東インド会社の全面的インド支配への契機となったこと。
ふたつめは、その百年後インド大反乱に口火を切る、
インド人たちがブリティッシュに立ち向かっていった最初のできごととして。
みっつめは、これを契機に、英国東インド会社は、
それまでの150年間の商社ではなく、
インド人雇って軍隊こしらえ、
英国人中心の官僚制までこしらえ、
ベンガルを手はじめに、全インドを間接統治するに至った。
すなわち、インド全域のたくさんのラジャたちを屈服させ、
条約を結び、支配下に置いた。
かれらのインド統治の拠点は、
東海岸にマドラス(チェンナイ)、
そしてカルカッタ(現、コルカタ)。
西海岸に、ボンベイ(現ムンバイ)。
そしてカリカットである。
初代ベンガル総督 Governor-General of Indiaの
ウォーレン・ヘースティングズ Warren Hastings は、
典雅にして古典的な教育を受けていた。
それゆえかれは後年、
ウルドゥー語とベンガル人言語を習得することもできた。
かれは、1750年、東インド会社の初代ベンガル総督になった。
かれは、インド法を作り上げるという難事業をおこなう任務に着手した。
一方でヒンドゥー法を、他方でバラモン経典を基礎にし、
裁判手続きはイギリス式にするという折衷案を採用した。
また、ヘースティング総督は、
ベンガル地方にザーミンダーリ制(地税)を導入した。
まずベンガル地方とビハール地方で、
そして二年後にベナーレスで、
地税の徴収をはじめる。
在職中に、マラータ戦争、マイソール戦争の責任者だった。
●
マラータ戦争とは、英国東インド会社が、
デカン高原を中心とした地域にあったマラータ王国 Maratha、
(ヒンドゥーの大勢力)に、戦争を仕掛け、
英国東インド会社が勝ったのだった。
マイソール戦争とは、
英国東インド会社が、南インド、カルナータカの、
マイソール王国に戦争を仕掛けたもの。
1700年代後半、三度にわたっての戦争、
英国東インド会社の勝ち。
英国東インド会社は、一応、マイソール王国を形式的に認め、
他の直轄統治は他の南インドに対してのみおこなうことにした。
とはいえ、この時期、1780年に、
英国東インド会社は、破産寸前になる。
戦争ばっかりやっていたからカネがかかりすぎたということか。
このときから英国政府は、東インド会社の経営に介入をはじめる。
そして1784年ウィリアム・ピットのインド法が導入され、さまざまな改革が始まる。
すべての州に民事裁判所をつくり、
イギリス人判事を置いた。
州を多くの県に分割した。
ただし、この時期、東インド会社の連中は、
もはや商社の業務をないがしろにするようになっていて、
私腹を肥やす堕落した官僚みたいになっていた。
あ、そうそう、プラッシーの戦いを鎮圧したロバート・クライブは、
英国帰国後、
1767年から、英国議会で、インドにおける裏金作りの疑惑を追及され、
形式的に無罪は証明されたものの、しかし世間への潔白は証明できず、
かれは、阿片中毒になり、
1774年11月22日に、ロンドンバークレー・スクエアの家で、
ナイフで自殺した。
すでに大英帝国にとってインドは、原料の調達地であるのみならず、
ブリティッシュ製品のマーケットにもなっていて。
かれらは関税を操作して、インド人の手工業者たちを失業させながら、
自国の製品を保護した。
インドの手工業は衰退し、飢饉は何度も起こり、餓死者もたくさん出た。
かれらのインド貿易もまた衰退し、
1813年、東インド会社のインド貿易における特権が剥奪され、
インド市場は全イギリス人に開放された。
(これがきっかけになって
インドに、ブリティッシュ繊維製品が大量に流入し、
これにてインドは、決定的に、ブリティシュ繊維製品の大消費国になった。)
けっきょく、いまや英国東インド会社に残された仕事は、
インド植民地行政だけだった。
つづく →
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/52002/目次
https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/