ロンドン王立協会
おもえばかれらは、わがまま勝手で暴力的な王様たちに、
千年以上も翻弄されてきた。
しかし、いまや、王様の権限は後退しつつあり、
他方、地主は土地を持ち、資本家はカネを持っていて、
相対的に、権力を持ちつつある。
そこでかれらは、啓蒙主義と呼ばれる思想を育てた。
それは市民に知的武装を呼びかける思想で、
もしも市民がバカなままでいれば、
国家に好き放題、やられてしまう。
だから、市民はみんな賢くなって、
国家を見張らなければいけない。
ざっと、そんな思想だった。
そしてイングランドにおいて、啓蒙主義の双子になってゆくのが、科学主義で、
それは、1660年、イングランドが、ふたたび王様の国に戻ったその年に生まれた、
科学者たちのサークル、
ロンドン王立協会(The Royal Society of London)がリードした。
当時の科学がどんな段階だったかといえば、
ガリレオが落体の法則を発見し、
ケプラーが、惑星の運動法則を考察した時代であるとともに、
金属学はまだ錬金術の黄昏のなかにあった。
ロンドン王立協会の、歴代会長を眺めてみよう。
初代の会長はウィリアム・ブラウンカー、
円周率を研究した学者だそうな。
3代目の会長はクリストファー・レン、
イタリアルネサンスの香りのする、優雅な趣味の建築家である。
6代目の会長はサミュエル・ピープス、
王政復古で出世した、海軍の実力者である。
で、12代目の会長がニュートンである。
ニュートンが、ロンドン王立協会会長だった1704年、
62歳のとき、かれは『光学』を出版した。
この本は話題になった、
内容にふさわしい読者のみならず、
光学とさして関係のない文学者たちにまで広く読まれた。
そしてあまりにも話題になって、結果、
光は、無知蒙昧の象徴たる暗がりを照らす、知性の象徴になった。
かれらは考えたものだ、<理性は誰にも平等にそなわっている>、
もちろんただのおもいこみにきまっているけれど、
ただし、そのおもいこみが、それなりに共有された。
これが世に言う、啓蒙主義ではあるわけだけれど。
ロンドン王立協会には、いろいろ功罪もまたあって、
なにしろかれらは科学主義をリードし、
イギリス社会の文化人リーダーになりあがったゆえ、
人文科学にもあれこれ口を出し、
かれらの考える良い文体は、
デカルト、パスカル、ガリレオ、ニュートンである、
というような価値観を社会全体におしつけ、
逆に、詩的精神を抑圧した、
なぜなら、詩的精神とは、二重の意味を含ませたり、
わかりにくい象徴をもちいたり、そんな文学趣味は、
ロンドン王立協会の敵だった。
(逆に言うと、後年ロマン派の時代の、象徴主義、文学趣味は、
ロンドン王立協会の時代に受けた抑圧への、
文学者の側からの逆襲でもあった。)
ただし、そういうことも含めて、おもしろい時代ではあって、
当時のロンドンは、いたるところにコーヒーハウスがあって、
それはフィレンツェのバールと同じく、
店ごとに集まる客の信仰も違えば、主義主張も違い、
うるさいことおびただしい。
印刷の黎明期でもあり、アジビラまがいのパンフレットもさまざまに発行され、
たとえば『ロビンソン・クルーソー』で名をなすダニエル・デフォーは、
宗教も支持政党おかまいなしに、ありとあらゆるパンフレットを書きまくり、
荒稼ぎもすれば、有罪になった次には晒し台に陳列された。
穴の開いた板に、頭と手をつき出させ、固定して、
笑いものされたものながら、デフォーは、いいネタができたもんだ、と、へっちゃらだった。
おりしもロンドンのシティ地区のセントポール大聖堂が、
ありとあらゆるパンフレットが手に入る、社交場になっていた時期であり、
トゥーリー党とホィッグ党が生まれ、
危なっかしく、議会政治が始まった時期でもあった。
当時のロンドンはあいかわらず不潔きわまりなく、
インフルエンザで人がばたばた死んでゆく。
なにしろ当時のヨーロッパ人ときたら迷妄を生きていて、
風呂になんて入ろうものなら、
毛穴が開いてそこから悪魔が入り込んで死んでしまう、
と考え、不潔を友として暮らしていた。
つづく →
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