『ヨーロッパのはずれの島と、象の顔の形をした大きな大陸の歴史(6)』ジュリアス・スージーさんの日記

レビュアーのカバー画像

Eat for health,performance and esthetic

メッセージを送る

ジュリアス・スージー (男性・東京都)

日記詳細

英国東インド会社は株式会社らしくなった





1649年クロムウェルは、ピューリタン革命を勝利に導いた。
また、イングランド東インド会社もまた、
ピューリタン革命のなかでぼろぼろになって、存亡の危機を迎えていたなか、
クロムウェルは、財政再建のため、
1657年、東インド会社を(それまでの航海ごとの清算を改め)、
永続的な株式会社として、再出発させもした。
しかしクロムウェル共和党政権のとった社会主義寄りの政策は、
経済を停滞に導くものとして、
貴族層のみならず、保守派各層は危機感をつのらせた。






1658年クロムウェルがインフルエンザで死に、
三男のリチャード・クロムウェルが後を継いだものの、
しかし、共和制への反感を抑え込むことはできず、
保守派の巻き返しがはじまって、就任8ヶ月で辞任。
王政復古になった。
父クロムウェルの墓はほじくり返され、
あらためて首を斬り落とされ、
竿の先に突き刺され、
ウェストミンスター寺院に24年間さらされた後、
ある日、強風で吹き飛ばされたそうな。







イギリスの王政復古は、イギリス東インド会社を、大きく発展させた。
なぜなら、この時期には、
経済の担い手は、かつてのように貴族(=地主)ではなく、
(同じく貴族中心とはいえ)都市民たちの産業資本と、
商業資本に替わっていて、
かれらは東インド会社を支持し、投資した、
なにしろ配当が高かったから。
こうしてイングランド東インド会社は、急速に拡大していった。
ネーデルランドとの3度の海戦にも、
1670年代にイングランドが勝利している。
英国東インド会社は、たんなる商社の域を越えて、
インドの拠点を押さえてゆく方針に変化してゆく。







他方、そのネーデルランドは、
1663年には南インドの西海岸コーチンに進出している。
フランスもまた、1674年、マドラス(現チェンナイ)に、
自分たちの領土として、ポンディシェリという名の街を作った。
その後イギリスとフランスの争いは、
(インドにおいても!)あちこちで起こることになる。





それは北インドのアグラにタージ・マハルが建った時期のことだった。
ムガル帝国においては、喰いつめ者のヨーロッパ人たちは、
ムガル帝国の砲兵隊として雇われもすれば、
イエズス会の神父たちがアグラやデリーで
布教をはじめてもいた。







つづく → http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/51542/
目次 https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/
ページの先頭へ