英国東インド会社は株式会社らしくなった
1649年クロムウェルは、ピューリタン革命を勝利に導いた。
また、イングランド東インド会社もまた、
ピューリタン革命のなかでぼろぼろになって、存亡の危機を迎えていたなか、
クロムウェルは、財政再建のため、
1657年、東インド会社を(それまでの航海ごとの清算を改め)、
永続的な株式会社として、再出発させもした。
しかしクロムウェル共和党政権のとった社会主義寄りの政策は、
経済を停滞に導くものとして、
貴族層のみならず、保守派各層は危機感をつのらせた。
1658年クロムウェルがインフルエンザで死に、
三男のリチャード・クロムウェルが後を継いだものの、
しかし、共和制への反感を抑え込むことはできず、
保守派の巻き返しがはじまって、就任8ヶ月で辞任。
王政復古になった。
父クロムウェルの墓はほじくり返され、
あらためて首を斬り落とされ、
竿の先に突き刺され、
ウェストミンスター寺院に24年間さらされた後、
ある日、強風で吹き飛ばされたそうな。
イギリスの王政復古は、イギリス東インド会社を、大きく発展させた。
なぜなら、この時期には、
経済の担い手は、かつてのように貴族(=地主)ではなく、
(同じく貴族中心とはいえ)都市民たちの産業資本と、
商業資本に替わっていて、
かれらは東インド会社を支持し、投資した、
なにしろ配当が高かったから。
こうしてイングランド東インド会社は、急速に拡大していった。
ネーデルランドとの3度の海戦にも、
1670年代にイングランドが勝利している。
英国東インド会社は、たんなる商社の域を越えて、
インドの拠点を押さえてゆく方針に変化してゆく。
他方、そのネーデルランドは、
1663年には南インドの西海岸コーチンに進出している。
フランスもまた、1674年、マドラス(現チェンナイ)に、
自分たちの領土として、ポンディシェリという名の街を作った。
その後イギリスとフランスの争いは、
(インドにおいても!)あちこちで起こることになる。
それは北インドのアグラにタージ・マハルが建った時期のことだった。
ムガル帝国においては、喰いつめ者のヨーロッパ人たちは、
ムガル帝国の砲兵隊として雇われもすれば、
イエズス会の神父たちがアグラやデリーで
布教をはじめてもいた。
つづく →
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/51542/目次
https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/