やりすぎた男、クロムウェル
1600年12月31日、(エリザベス女王の御世の最後の時期に)、
イングランド東インド会社 the British East India Company は設立された。
ロンドン、シティ地区にある、ちっぽけな会社だ。
そもそも「東インド会社」という呼び方がおもしろい、
コロンブスが「発見」した「西インド諸島」(=中南米)と、
一対の呼び方なんだもの。
イングランド東インド会社は、
海賊が女王に提案し、海賊が設立資金を出し、
商船やら船長やらを提供して、生まれた商社である。
もっとも、この当時の東インド会社は、
しかも航海ごとに出資者を集め、
航海の後に、利益の配当を払うシステムだった。
1602年、ネーデルランドは、追いかけるように、アムステルダムに、
かれらの海賊による、東インド会社を設立した。
こちらは国策会社で、英国東インド会社に比べて、
圧倒的にでかく、資金の運用額も桁違いだったそうな。
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続いてイングランドは、ジェームズ一世(在 1603年 - 1625年)の御世。
かれはスコットランド女王のメアリーの息子で、
イングランドでこそ、ジェイムズ6世ながら、
スコットランドではジェイムズ6世、
その上、アイルランドの王様まで兼任しているから、ややこしい。
まだ王様の時代ゆえ、国も王様の持ち物みたいなもの、
戦争で領土を盗ったり取られたりするばかりでなく、
王様一族の政略結婚が外交を方向づけていて。
ま、そんな時代に、
イングランドとスコットランド、ついでにウェールズも含めた呼び方として、
Great Britain (英国)という呼び方が、非公式ながら、生まれた。
(公式な意味でのグレイト・ブリテンという語の誕生は、
1707年、イングランド王国とスコットランド王国が連合条約を結んだときから)。
とはいえ、1600年代そうそうはグレイトというよりもむしろ現実はミゼラブル、
なぜって、この時期は異常気象で、地球寒冷期。
農作物は不作で、飢饉が起こり、暴動や反乱があいついだそうな。
それでもチャールズ1世は、常備艦隊の拡充にカネを使い、
「海を制してグレイトに!」と先見の明を発揮したものの、
しかし、これが財政が圧迫し、
ピューリタン革命の原因のひとつになった。
もっとも、ピューリタン革命の原因はいくつもあって、
まず最初に、ジェームズ一世の命によって、
英語版・欽定訳聖書(The King James Version )が1611年に出版され、
まだ文盲も多い時代とはいえ、それでもそれまでと比較すれば、
遥かに多くの人が聖書の内容に関心をもつ時代になっていた。
次に、この時期、イングランドは、事実上、信仰が三つに割れていた、
英国国教会の信徒、ローマカトリック、そしてピューリタンである。
ほんらい英国国教会はプロテスタントであり、
ピューリタンはその改革派だった。
しかしながら、ピューリタンは、その激烈な聖書原理主義によって、
もはた英国国教会の敵になり果てていた。
おまけにピューリタンたちは、
芝居もダンスもセックスもたのしいことはぜんぶ大嫌いな、
とことんまじめ人間揃い、その上、やることなすこと攻撃的だったゆえ、
世間でも、そうとう浮いていた。
しかも1605年11月、事件は未然に防ぐことができたとはいえ、
ガイ・フォークスなるクリスチャンが、議会に爆薬をしかけ、
その爆発で、両院議員もジェイムズ一世もぶッ殺す、
という事件が発覚する。
これがクリスチャンの弾圧の強化に繋がるとともに、
ピューリタンたちの正義感を燃え立たせてゆく。
さて、この時代のインドを見てゆこう。
1612年、英国東インド会社は、
アラビア海沿岸、インド半島のつけ根にある、
港町スーラト Surat を、根拠地にした。
当時、スーラトは、ムガル帝国一の貿易港であり、
メッカ巡礼のための船に乗り込む港街。
住人の大半がバニヤー Baniya (商業民)と呼ばれ、
ヒンドゥーもしくはジャイナの商人、
ただし、スーラトには、ムスリムもパルシーも多く、
アルメニア人も、ユダヤ教徒も暮らしていた。
英国のみならず、ポルトガル、オランダ、ペルシアの商館もあった。
スーラトでは、米、小麦、綿花、絹、キャリコ(インド綿の服)を買うことができた。
英国東インド会社は、1687年、ボンベイに拠点を移すまで、
スーラトを拠点にした。
1623年に、ネーデルランド東インド会社の官吏10人が、
イングランド人商人を処刑した。(アンボイナ虐殺事件)。
いやはや、なんとも血なまぐさい展開、
しかしイングランドとてインド商売から手を引くわけにはゆかない、
1639年、イングランドは、南インド、マドラス(=現チェンナイ)を手に入れ、
その中心に要塞をこしらえた。
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その次の王様におさまったチャールズ一世(在 1625年 - 1649年)は、
あろうことか、カトリックのフランスからアンリエッタ・マリアを迎え、
その上、セント・ジェイムズ宮殿のなかに、
カトリック礼拝堂を作ってしまう。
これでは、気まじめな聖書原理主義者のピューリタンたちが、
烈火のように怒るのも当然である。
こうしてピューリタンたちは、いまや、堂々たる反体制になっていった。
もちろん王様は、腹をたてる、
当時の王権神授説を主張し、
神の代理人であると言い張っていたゆえ、
自分にさからう者は、殺したってかまわない。
ピューリタンの耳を削ぐ、鼻を削ぐ、
乱暴狼藉の限りを尽くす。
1620年、ピューリタンたちのある者たちは迫害に耐え切れず、
新大陸に理想の国を作ることに、希望を託し、
メイフラワー号に乗って、命懸けで、未開の地に旅立っていった。
酒は飲まない、遊びごとは嫌う、ただ働いて、
聖書を読み、祈りを捧げる。
そんな狂信的なかれらが、迫害に耐え切れず、
自由を求めて、命からがら新大陸に渡ったのだ。
新大陸にあっても、かれらは自分たちの正しさを疑うことなく、
原住民の虐殺が成功すれば、
神がわれわれにくだすった恵みとして、感謝を捧げた。
他方、イングランドに残ったピューリタンたちは、
革命を起こすことを決意した。
1643年、ピューリタンは、
セントポール大聖堂の屋外説教壇と、
それからチープサドの十字架塔を爆破している。
しかもこの宗教間闘争は、
主流派と傍流の闘争、
はたまた階級闘争をも巻き込み、
イングランド全土は内戦常態の大混乱。
もちろん新聞は連日ニュースとして書きたてた。
ピューリタンのクロムウェルは、大衆を味方につけ、
しかも軍隊の組織化に秀で、革命に勝利した、
国王軍に死者4500人、捕虜1500人の犠牲とともに。
クロムウェルは、1649年1月27日王様チャールズ一世を裁判にかけ、
反逆罪にして、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑し、
首を刎ねた。
つづく →
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/51498/目次
https://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/161891/