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1位
1回
2014/12訪問 2018/08/16
大森ケララの風2は、ランチタイムオンリーで、
11時半から4時までのミールス&ティファン・ダイニングです。
定休は火曜・水曜そして木曜。
逆に言えば、営業日は金、土、日、月ランチのみ。
ミールス1100円おかわり自由、コーヒーもしくはチャイつき。
インド料理好きならば食べないテはありません。
さて、ケララ2のオウナー料理人 沼尻匡彦さんって、いったいどんな人なんでしょう。
いったいどんな経緯でこの人は、誰よりも南インド料理を愛し続ける男になったんでしょうか?
沼尻さんが、南インド料理のミールスやテイファンに夢中になったのは、
1980年から1982年にかけて、当時二十代の商社マンとして、
材料の買いつけにインドのケーララ州に駐在していたときのことでした。
商社マンですからインドで交流する人も上流階級の人ばかり、
沼尻さんもとうぜんのように最初の一ヶ月ほどは、
いわゆるクロスのかかったゴージャスなレストランで、
糊の効いた純白のトーションを膝にかけ、
背筋を伸ばしちょっと重めの輝くフォークとスプーンを使って、
贅沢なインド料理ばかりを食べ続けていました。
商社マンゆえ給料も高く、インドの家には召使もいる。
しかも為替レートのゆえ贅沢はいくらでもできる。
豪華なレストランに行きたい放題です。
ところがインド滞在一ヶ月ほどある日、
沼尻さんはおもいがけず、
仕事の関係でとある工場の社員食堂で昼食を召し上がって、
その素朴なおいしさに驚いた。
こんなにも素朴でこんなにもおいしい料理があったのか。
いかにも異国の料理でありながら、
それでいて他方で、どこか日本の昭和三十年代の、
それこそキンピラごぼうだの、イモの煮っ転がしだの、
おからだの、がんもどきだのの、
おいしさをもおもいださせてくれる。
エキゾティックでありながら、懐かしい。
これがミールスという食べ物なのか、
おいしいなぁ。おいしい。すごくおいしいなぁ。
沼尻さんは自分を責めます、
おれはいったいいままでインドで、このケーララでいったいなにをやっていたんだろう、
おれは商社マンでなまじカネをいっぱい持っているばかりに、
豪華なレストランにばかり食べに行って、
メニューなんて下から(値段の高い方から)読んじゃって、
贅沢な料理ばかりを食いまくって、
たしかにどれもおいしいことはおいしかったけれど、
しかしあっというまに出腹ですよ。
ったく焼肉のタレじゃないっつーの、あ、それはエバラか。
いやぁ、それにしてもふつうのインド人がふつうに毎日食べている、
素朴なミールスのこのすばらしいおいしさ!
安い、おいしい、懐かしい、健康にいい。
こんなにもすばらしい料理があることに、
おれは南インドで暮らしていながら、
これまでまったく気づきもしなかったなんて、
おれはなんてバカ野郎だったんだろう。
誰か無線の信号でおれに教えてくれれば良かったのになぁ、
トトトツーツーツートトト、
ミールス信号、なんちゃって。
それからというもの沼尻さんは、
階級的なレストランなどには見向きもせずに、
街場の食堂を巡ってはひたすらミールスを食べこんでゆきます。
さいわい南インドの街にはどこの街のどこのブロックにも、
一軒や二軒は朝と、午後にはティファンをふるまい、
ランチタイムにはミールスをふるまう定食屋がある。
街の人たちが普段着にサンダル履きで訪れ、
店の人と世間話をしたり新聞を読んだりしながらミールスを注文する。
ショコラ色の肌の、睫の長い小学生か中学生くらいのコドモが、
サンバルのバケツや、ライスのバケツを抱えてやってきて、
客のステンレスのお盆に、ドカッ、ベチョッと盛っていく。
おかわり自由。一食30円~50円。(当時の価格です、いまは200円くらいはします)。
もちろん客は誰も、右手の親指、人差し指、中指を使って、手食をします。
店の片隅には洗面台があって手洗いができる。
食後のお茶は、蚕の糞のような屑茶葉で濃い目に淹れたミルクティー、プラス10円。
これがまたなんともおいしい。
そう、沼尻さんが惚れ込んだのは、
安い、おいしい、懐かしい、
けっして高みを求めない、そんな街場の気さくな定食屋料理でした。
駐在員の任期が終わり帰国するにあたって、
沼尻さんの胸になんとも言えない哀しみが生まれます。
これまで毎日あたりまえに食べていたミールスが、ティファンが、
これからはそうかんたんには食べられなくなる。
もはや沼尻さんにとって、ごはんとは、
ラッサムの酸味をともなった立体的な味、
サンバルの素朴にして力強い香りとともにあってこそ。
それらをかけて、ぐちょぐちょ混ぜて猫飯にして食べてこそ、
生きるよろこび。
ラッサムもサンバルもないごはんなんて、夢も希望もありません。
それは 絶望 の、またの名でした。
「せめて」・・・沼尻さんは一冊のレシピブックを買い求めます、
インドのピーナツオイルの会社が
ピーナツオイルを売るために作った活版印刷のブックレットでした。
帰国後沼尻さんは、それでも東京のどこかでは必ずや南インド料理を食べられるはずだとおもって、
アジャンタ、ナイル、タージと食べ歩くものの、
しかしどの店もミールスもティファンも出していませんでした。
ミールスが食べたい。なんとしてでもミールスが食べたい。
しかし時は1980年代であり、00年以降とは時代が違います、
沼尻さんがどれだけ望もうとも、南インド料理専門のレストランも食堂も、
東京に一軒も存在しませんでした。
しかし、沼尻さんはあきらめない、
もうこうなったらもう自分で作るしかない。
沼尻さんはインドで買い求めたレシピブック片手に、
アメ横の大津屋や、五反田のアローラさんのマンションに行って、
食材を買い求め、インド料理の試作を重ねてゆきます。
当時はいまとは違ってなかなか食材が手に入りません。
豆ならマスール、ムング、チャナ。
スパイスもヒングはたまに入るくらい。
乾燥もののカレーリーフも年に数回くらい入ってくる程度。
しかも当時の乾燥ものは質が悪い。
コリアンダーリーフが手に入るようになるのも、
ようやく1990年代半ば、東急の地下に入るようになってからでした。
しかも当時は日本にインド料理の知識も乏しかった。
クックブックにテンパリングと書いてあっても、その意味がわからない。
わからないわからないって頭を抱えていると、
だんだん頭にカッカカッカ血が上っちゃって、そのテンパリングじゃないっつーの。
むろんいまなら、マニアはみんな知っています、
テンパリングとは、料理の仕上げのときに、少量の油にスパイスの香りを移し、
ジュッと料理に注ぎ香りづけすること。
しかし当時はその意味を知るまでには長い時間が必要でした。
それだけではありません、チャナダルが、皮なし(の、チャナ豆)のことであり、
チャナと呼ぶときは「皮つき」のことであること、
ウーラッドダルも同様に皮なし、ウーラッドと言うときは皮つきであることを知るにも、
長い時間がかかったものでした。
当時はなにも知らないゆえ、ウーラッド(皮つき)でワダを作ろうとして、
何度となく、失敗します。
なぜ? どうして? あのふかふかのワダができないのだろう?
失意の渦中どこからともなく聴こえてくるあの歌は、
『笑って許して』和田アキ子。
もはやとうてい商社マンの趣味とは言えない情熱です。
沼尻さんは鍋のなかのダルをかきまわしながらつぶやく、
こうしておれがうちで料理ばっか作ってると、
また第一夫人から叱られちゃうんだよなぁ、
しかしね、おれだってね、備えがありますよ、
第一夫人が怒りかけたら、その瞬間にね、
おれ、先手取って、和田弘を気取って、歌っちゃいますよ、
「ダルより~も、ダルよりも、きみ~を愛す~♪」なんちて。
あ、若い人はマヒナスターズも松尾和子も知らないか。
と、まぁ、そんなふうに沼尻さんは、
レシピブックと格闘し、インドでの記憶を頼りに、ラッサムを、サンバルを繰り返し作り、
トーレンを作り、ワダを揚げ、少しづつ自分の南インド料理の世界を作り上げてゆきます。
ひじょうに情報の少ないなかで手探りで南インド料理を追い求めるよろこびがあり、
何度となく失敗を重ねながら、料理の質を高めてゆこうとする、精神のゆたかさが息づいていて。
そして、あっというまに二十年の時が経っていました。
さて、沼尻さんは、2000年からは、
インターネットを利用して仲間をつのり、実費のみの会費制食事会グルジリを主催するようになります。
もちろん料理長は、沼尻さん。
おもえばそれはふしぎな光景でした、
当時アマチュア料理人だった沼尻さんの料理を、
参加メンバーはせいぜい700円ほどの実費を払って、公民館や集会所に集る。
サラリーマンも、IT関係者も、家族連れも、学生も、インド人も、
ふだんなかなか出会わないような顔ぶれが、
買出しやら調理やらを手伝いながら、
できあがったミールスをみんなで盛りつけ、
知らぬ同士が、わいわい語り合いながら、いただく。
いいえ、ラッサムもサンバルもサブジもクートゥも、
みんな沼尻さんの料理でもって、あ、おいしい、へぇ、こういう料理があるんだ、
と興味をもってゆきました。
沼尻さんはむかしから揚げ物が上手で、山菜のインドふうてんぷらなど、
センスのいい料理で、みんなをよろこばせたもの。
さらには現なんどりの稲垣さんも、当時はシステムエンジニアで、
沼尻さんとともに調理を分担するようになってゆきました。
食事が済めばみんなで手分をして洗いものをして、
洗いものさえもが人を幸福にすることができたもの、
そこに沼尻さんがいたから。
いつのまにか沼尻さんは、
本業の商社マンとは別のもうひとつの人生をも生きるようになっていました。
こっちの方の沼尻さんは、怪しいおぢさんと呼ばれ、
あるいは南インド料理界の水戸黄門と呼ばれ、
東京を中心に、時には北は北海道札幌から、南は九州博多、沖縄まで行脚する、
さすらいのアマチュア料理人になっていった。
どこの地域から呼ばれても、代金は食材実費と、交通費のみ。謝礼は断固受け取りません。
おもな場所は、公共施設。ときには鮨屋や、ジャズクラブ、呉服屋の催事でも。
どこかに南インド料理を食べたい人がいれば、沼尻さんはそこに駆けつけ、料理を作る。
食事会グルジリは、2000年から2008年7月そうそうまで、
260回も開催され、参加メンバーは延べ4000人にのぼったそうな。
沼尻さんの功績といえば、日本におけるカレーリーフの生育と販売があります。
南インド料理の香りの表現に欠かすことのできない、
緑の葉っぱ、カレーリーフは、もともと、
気候風土の違いから、日本での栽培は無理と言われていたものの、
しかしもちろん沼尻さんは負けません、
沖縄の契約農家とかけあって、(私利私欲まったく抜きで)栽培に成功させ、
しかも、一時はそれを吉池屋が販売していたもの。
沼尻さんは、1円の儲けにもならないにもかかわらず、
そのプロセスをたのしみ、フレッシュカレーリーフの普及をよろこびました。
日本の南インド料理好きは、沼尻さんに足を向けては眠れません。
00年代、在東京インド人の増加にともなって、
東京に南インドレストランが生まれ、00年代後半には増えてゆきました。
そんななか2008年7月20日、沼尻さんは満を持して、ケララの風をオープン。
第一期の2011年5月30日までは、瀬島徳人料理長が、
ケーララ州のホテルレストランを渡り歩き料理修行で身につけた、
レストランスタイルのひじょうにエレガントなミールスや、
そしてディナータイムでは、レストランフレンチのスタイルを密輸して
インド料理の新たな世界を創造するひじょうに洗練されたフルコースを作っていたもの。
他方、2011年6月22日以降、ケララの風2は、襲いかかる不景気の波のなか、
なんとしてでも食材の質を落とさず、
1000円でおかわり自由コーヒーつきのミールスを提供することにこだわるあまり、
あらゆる経費を削減し、ミールス&テイファン専門店として、昼営業のみに切り替え、
沼尻さん自らがすべての料理をおひとりで担当、
瀬島料理長時代のミールスの味と香りづけそしてエレガンスを継承しつつ、
それでいて全体的には、家庭料理ひいては街場の定食屋料理のほのぼのした味わいになりました。
ケララの風2の沼尻さんのミールス、おいしいですよ。
インド料理好きならば、ケララの風2のミールスを食べないなんてもったいない、
これぞまさにリアルインドの家庭料理であり、リアルインドの定食屋料理、
なるほど、それは、生きている伝説、
誰よりも南インド料理を愛し続ける男、沼尻匡彦さんのミールスなのだもの。
そしてサーヴィスを担当する奥様がまた笑顔が似合う、チャーミングでかわいらしい人なんだ。
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/
2位
1回
2014/08訪問 2018/03/17
おかあさんは台所で泣いた、声を殺して。
その頃ネパールは王様の国で、
ウルミラさんのおとうさんは料理人として、
ビレンドラ王の親族に仕えていました。
ネパールは(法律で明文化されてはいないものの、事実上)一夫多妻制、
王妃には英国女性もフランス女性もいて。
だからウルミラさんのおとうさんは
ネパール料理やインド料理のほかに、
フランス料理やイタリア料理も作ったもの。
ウルミラさんのおとうさんは料理が巧く、
レパートリーは多彩、仕上げはエレガントゆえ、
王様から高給をもらっていて、家族はそれが自慢でした。
なるほど、ウルミラさんのおとうさんは一流の料理人だったけれど、
ひとつだけ弱点があって、それはお酒に弱いこと。
給料日にはお酒を飲んで気が大きくなって、
ついいろんなところでおカネを使ったり、誰かにおカネをあげたりするものだから、
おとうさんはたくさんお給料をもらっているのに、
でも家に入れるおカネはとても少なかった。
カトマンドゥ。
建ち並ぶ煉瓦の家々、信仰が生きていて、まるで南アジアのフィレンツェのよう。
そんな首都カトマンドゥは、カトマンドゥ市、バドガオン市、パタン市で構成されていて、
それらはいずれも8世紀に生まれたマッラ王朝から15世紀末に分裂した、
それぞれの王朝を持つ3つの市で、肩寄せ合って共生しています。
パタンは、またの名を 美の都 Lalitpur ラリトプールと呼ばれ、街そのものが映画のセットのよう。
ウルミラさんの家はそのパタンの、クポンドル Kupondole にありました。
多くのネパール食堂のインテリアになっている、木彫を施したネパール窓をご存知ではないかしら?
明るく軽い南国の木材に、一枚彫りで、花々、神様、孔雀、アヒルなどが稠密に彫りこまれている、あの窓を。
あの窓もパタン文化のひとつで、その他、かれらは建築にも優れ、立派な寺院を美しく建てもすれば、
はたまたネパールのおじさんがかぶる
(綺麗な模様入りの)船の形の帽子(ダカトピ)に使われる織物(ダカ・ファブリック)でも有名です。
パタンは工芸で名高い古都で、
そしてウルミラさんの一族はネワール族 (Newārs あるいはNewa people)で 、
遠いむかしからカトマンドゥーに暮してきた、ぞっこんの都市民。
ネパールには他に、ラーナ族、チェトリ族をはじめ、
有名な民族だけを数えても十もの民族が暮しています。
コドモ時代のウルミラさんは、近所のコドモたちと石でお手玉をしたり、
ビー玉遊びや、グァイン・ケルネ(ネパール版の、けんけんぱ)をして遊びながら、
自然にネパール語、ネワール語、ヒンディを身に着けてゆきました。
夏に、バグマディ川で泳ぐようになった頃には、弟や妹も生まれていて、
ウルミラさんは、かれらの面倒もよく見たもの。
おとうさんはあいかわらずで、家族のことなどなにも考えてくれません。
ある日ウルミラさんのおかあさんは意を決して食堂を出した、家族を支えてゆくために。
なぜって、いくら高給をもらっていてもおとうさんは頼りにならないから。
椅子席が6つほどの小さな定食屋、つましいけれど心のこもった店のしつらえ、
おかあさんの笑顔と、ごく普通の料理をごちそうにしてしまう、おかあさんの料理で、
いつのまにか街の人たちの人気の店になってゆきました。
カトマンドゥの街は夜明けまえに動き出します。
まだ空は暗くわずかに青いそんな時間に、
神様たちの像の前に、街の人の手でそっと蝋燭の火がともされ、
人は花々を捧げ、香のかおりがただようなか、お祈りをします。
それから街の男たちは、「バウズー!」とウルミラさんのおかあさんの名前を呼び、ドアを叩き、
チヤ(=チャイ)をせがんだ。
街の人たちは入れ替わり立ち替わり、チヤを飲みに立ち寄り、
そしてかれらはお勘定を払い、搾りたての、牛乳を買いに行った。
ちっぽけなお店とはいえ、朝の9時までに、お客さんは何回転もしました。
ウルミラさんのおかあさんは、9時頃、いったん店を閉め、
露天市場に水牛の肉と野菜を買いに行き、
そして店に戻って、仕込みをはじめる。
ランチタイムメニューは、
チョエラ(スパイスとともに茹でた豚肉を、香味野菜とスパイスで和えた冷製)、
カラチ(生の水牛肉の和え物)、
パダム・ラ・バトマス・サンデコ(ピーナッツと大豆のスパイシー炒め)、
アル・カバブ(じゃがいのスパイシー炒め)、
アル・コ・チョップ(じゃがいものコロッケ)。
街の建築職人や、煉瓦職人たち、織物職人たちは、みんな、
ウルミラさんのおかあさんの料理をいっぱい食べて、
汗をいっぱいかいて、また元気に、仕事に戻っていったもの。
ウルミラさんはいまでも街の人たちの声を覚えています、
「アジャ・ケーコ・タルカリ?(きょうのタルカリはなに?)」
ウルミラさんのおかあさんは答えます、「アル・ラ・サーグ!(じゃがいもとほうれんそうのタルカリだよ!)」
「アル・ラ・シーミ!(じゃがいもといんげんのタルカリだよ!)」
ウルミラさんのおかあさんのお店は、街の人のなごやかなサロンでした。
夜は、ネパールの乳白色のお酒チャンや、
ツォエラ(ローストしたチキンをスパイスでマリネした冷製の一品)が人気で、
テイク・アウトもよく売れた。
ウルミラさんは、働くおかあさんの姿を見て育ちました。
ウルミラさんが、バグマディ川に架かる橋を渡って、
はじめてお隣のバングラデシュ市へ行ったのは、
おカネ持ちのジャパニの家庭の住み込みのメイドになったとき。
ウルミラさんの仕事は、ベビーシッティング、すなわち掃除、洗濯、そして料理。
かれらによろこんでもらうため、おっかなびっくり日本料理も教わって、ひとつひとつ作っていった。
ウルミラさんはいまでも、こまかな文字でていねいに和食のレシピをメモした一冊のノートを持っています。
Temaki-zushi、Oyako-donburi、Tempura、なんとTofuの作り方まで!
そう、ウルミラさんがネパール料理に次いで覚えたのは、日本の家庭料理でした。
ジャパニの家族は、ネパールで食べるウルミラさんの日本料理をよろこび、
ウルミラさんを褒めた。ウルミラさんも褒められればうれしい。
こうしてウルミラさんは、まだ少女ながら小さな社会人として、
ささやかな自信を持つようになってゆくとともに、
同時にジャパニに好意も抱くようになってゆきました。
だからその後ウルミラさんが、日本人たちの海外青年協力隊のメイドになって、
ひき続きウルミラさんが日本人たちに料理を作るようになったことも自然なことでした。
なぜって、ウルミラさんは、他のネパール人にはないささやかなスキルを持っていて、
片言の日本語を使え、しかもちゃんと日本人によろこんでもらえる
日本の家庭料理を自分なりに作ることができたから。
髪が黒く、肌は黄色く、眼鏡をかけ、
不思議な言葉をしゃべり、笑顔でおじぎをするジャパニたち。
自分が一所懸命働くと、よろこんで褒めてくれる人たち。
ウルミラさんは、日本人を、好きになっていった。
●
ウルミラさんが日本へやって来て、
船橋のガンディで8年間、接客をして、おカネをため、
東京の地の果て、JR小岩のはずれにレストラン・サンサールを作ったのは、1999年のこと。
おもえばそれは、(1989年ベルリンの壁が壊され、ソヴィエト連邦が瓦解し、
中国の若者たちによる民主化闘争を中国共産党が阻止した、
そんな国際的な流れのなかで)、二百年以上にわたって王様の国だったネパールにおいても、
1996年、ネパール共産党毛沢東主義派が、反王室・武装闘争をはじめ、
政情が揺らぎ、ネパールが混乱と不安の時代に突入した頃でした。
他方、当時の東京のインドレストラン事情は、
1980年代の少数精鋭時代を作った多くの店が、
しかしバブルが弾けてからセントラルキッチンを導入して質を低下させ、
そうかと言って、00年代後半以降の、
在東京インド人増加によるレストランの群雄割拠時代はまだ訪れない、谷間の時代。
当時はいまとは違って、インド料理屋は山手線の内側の繁華街でしかなかなかうまくゆきませんでした。
しかも当時の在日インド料理人たちのあいだには偏見があって、
わずかな名店は別として、名もない店の多くは、
ジャパニの連中にはタンドリーチキンとバターチキンカレーとナンさえ出しておけば十分で、
チキンは、ブラジル産の1キロ400円、ほうれんそうは中国産の冷凍ものでOK、
カレーに味の素の一振りでもしておけば、みんな大喜びさ、
なーんておもわれていたもの、(ひどい時代があったもの、と言いたいところですが、
実はいまなお多くの店はそんなふうです)。
当時は南インドレストランもほとんど存在せず、
ましてやネパール料理をふるまうレストランは、
1978年に誕生した恵比寿のクンビラただ一軒だけで、
クンビラは、恵比寿という都会的な場所で、
エキゾティックなチベット系ネパール料理をふるまっていて、
いまなお人気店ながら、ただし1990年代には、たいそう魅力的だった。
そんな時代にウルミラさんは、JR小岩駅から徒歩十五分という最果ての地の、
潰れたインドレストランを居抜きで使い、
等級の良い食材を使った上等の料理で、
レストランを回してゆくことへの強い意志をもっていました。
小岩は、錦糸町の親戚みたいなひなびた繁華街の街、
いったいどれだけの人が、上等のインド料理を求めていたでしょう?
ましてやネパール料理はその存在すら誰も知りません。
もちろん周囲の人にとっては、ウルミラさんは、ドン・キホーテに見えたでしょう。
小岩の人たちにとっては、半年もすればまた潰れてしまうだろう、
そんな店がまた性懲りもなく店開きした、ただそれだけのこと。
しかも、サンサールの席数はなんと四十席もあって、
苦戦を強いられたのも当然のことでした。
そんななかひとりの博識にして狂熱的な南アジア料理マニアが、
開店そうそうからサンサールの料理に惚れ込んだ。
客もろくについていないサンサールで、
かれだけは、ただひとり、その店の料理に熱狂した。
かれはサンサールの料理のレヴューをホームページに書きはじめた。
当時世間のインド料理好きと言えば、
せいぜいナンとタンドリーチキンとバターチキンカレー、
サグパニール、キーマカレーがごちそうだというのに、
しかしかれのサイトだけは、
ダルバート、(ダル、タルカリ、そしてアチャール)、
砂肝とレバーの炒めもの、チョエラ、チャオミン(炒麺)、ウォー・・・・。
呪文のような料理名が並び、
それらがいかにもおいしそうに、それらこそがまさに、かけがえのない料理として、
微に入り細を穿つように具体的に、報告されていった。
しかもかれのサンサール食事報告は、
週に何回となく、えんえん書き続けられていった。
なにかのきっかけで、食いしん坊がつい、読んでしまったならば、
なにがなんだかさっぱりわからない世界ながらも、
文章と写真が伝えるその熱気に圧倒され、ここにはなにかがある、
この店にも、そしてこのエントリーを書き続ける男にも、ただならないなにものものかがある、
それはいったいなんなんだ、
と、自分の目で、舌で、確かめずにはいられなくなるのだった。
サンサール黎明期の紆余曲折、
何度となく訪れた存亡の危機については、ここでは語りきれないけれど、
少なくとも料理について言えば、開店2年後に、ほぼ現在のサンサールの世界ができあがった。
インドレストラン料理と、ネパール家庭料理の2系統のメニューが。
インド料理のラインナップは、タンドリーチキン、ナン、各種カレー。
ネパール料理は、まずはダルバート、
すなわちDal-bhat-tarkari、豆のポタージュたるダル、そしてごはん(=バート)、
そして野菜炒めタルカリ(そしてアチャール)で構成されたワン・ディッシュ・プレイト。
そして、砂肝とレヴァーの炒めもの、チリ・チキン、チョエラ、ウォーなどさまざまな一品料理が並ぶ。
もちろん40席に見合う売り上げを安定的に保つことは至難だったものの、
それでも、ウルミラさんの料理の才と、
お客たちを愛する優しい心は、少しづつファンを増やしていった。
なるほど、ウルミラさんは火使いがワイルドで、
スパイスの過熱が的確、香りをなんとも派手に立たせる。
肉料理に奥深いうまみを作る、そのうまみの凝縮の仕方を驚くほど多彩に熟知している。
それでいて味つけには、絵画に喩えるならば味覚の中間色を使いこなすような、上品と優美がある。
どの料理もけっして、トゥー・マッチ・クリーミーでも、オイリーでもなく、質実なおいしさに満ちている。
ダルにいたっては、仕上げにクミンのローストの苦味がかっこよく効かせてあって、なんともすばらしい。
しかもウルミラさんのダルは、その日のイマジネーションで、
黄色いレンズ豆(マスールダル)、ピンクのレンズ豆(=トゥールダル)、
緑豆(=ムング豆)そのほか数々の豆を使い分け、ブレンドし、
またトマトやタマネギの扱いも可変的で、
したがってダルのヴァリエーションがたいそう豊富で、
「ウルミラさんは108種のダルを作る!」とさえ賞賛された。
(もっとも近年はひじょうに優美な定番ダルの出番がほとんどだけれど、
それでもたまにおもいがけないおいしさのめずらしいダルがふるまわれる日もある。
一例を挙げれば、神秘的な深緑色の湖の水が、夢の魔法によって、温められ、
世にも稀なるダルに生まれ変わったかのような、あの、マスコ・ダル!)
また、インド料理は当時もいまもウルミラさんは作らないものの、
ただしウルミラさんの料理人選びは厳しく、そのおいしさ、質の高さは疑いようもない。
けれどもそれと同時にかつてのウルミラさんは弱点をもまた抱えていました。
どういうわけかウルミラさんの料理にはごく稀に、
「あの天才的なウルミラさんが、
なぜに、こんな、寝ぼけたダルを!??」
というような驚くべき事態に遭遇することもあって。
そんなときは、ぼくはウルミラさんに困惑を伝えたもの、
「ウルミラさん、きょうのダル、どうしちゃったの!??」
するとウルミラさんは、
ぼくの飲み残したカトリ(小鉢)をひょいと取って、
味見をして、二秒の沈黙の後、
照れ笑いとともに認めたものだ、
「おいしくない!」
●
しかしそんな話ももはや遠い昔話です、
小岩サンサールは何度かの経営危機を乗り越え、
厨房のスタッフフォーメーションもしっかりしてきて、
かつてのような、料理のでき・ふできの波もなくなって、
週末はいつもお客さんで満席、平日もわりと賑わう日が増え、
しかもインド系料理マニアからはもちろん、
ごくふつうの食いしん坊や、ご近所さんからも愛され、
コドモから老人まで多彩な客が料理を愉しんでいて。
食べログでは高得点を獲得し、
江戸川区産業賞優良商店の評価まで得て、
それらはネパール人のウルミラさんをどれだけよろこばせたか知れません。
おもえばネパール料理もずいぶんと日本人にしたしまれるようになったもの。
小岩サンサール、千駄木ミルミレ、高輪レッサムフィリリ、
新宿サンサールは、ほぼ同級生で、いずれも十五年にわたって愛されていて、
しかも2010年以降は、
いまどきのカトマンドゥーな店作りとともに魅惑のダルバートをふるまう渋谷 ネパリコ、
ポカラの山岳地方の野太い料理をふるまう巣鴨プルジャ・ダイニング、
港、横浜、関内には、スープ・モモのおいしいエミ・ネパール、
そして2015年は、大久保を中心にどんどん
ネパール食堂が群がるように誕生していて、
とくにナングロガルは堂々たる高みを魅せつけています。
そんななか小岩サンサールは、
一方で、誰にでも愛されるおいしいインド料理をふるまう人気店であり、
他方で、東京のネパールレストランの規範として存在しています。
なぜってサンサールにあっては、
メニューに載っている料理は魅惑の迷宮の入口にすぎず、
その奥には、縦横ずらりと、ネワールNewa cuisine の美味への扉が並んでいます。
なにしろウルミラさんのレパートリーは膨大で、
毎日タルカリの種類が変わるダルバートを何年食べ続けてもけっして飽きることはなく、
おまかせフルコース4000円を何十回食べても、そのたびごとに幸福で、
しかも次回のサンサールでの食事が待ち遠しいほど。
小岩サンサールは、数々のアジア料理を長いあいだ食べ続けて来た人びとが、
最後にたどり着く約束の地。
そしてぼくは胸の奥でそっとつぶやく、
エックダム・ミトチャ、サンサール!
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ぼくの、サンサール新宿店のレヴューは、こちら。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/rvwdtl/3361010/
『くいしんぼうが料理人を愛するとき。(小岩サンサール黎明期の話。)』
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/diarydtl/105280/
とある博識にして狂熱的なインド・ネパール料理マニアの、膨大な、サンサール食事記録。
http://munmun.moo.jp/ifc/san.html
IFC http://munmun.moo.jp/ifc/
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Indian & Nepali Restaurant Sansar;
the Tokyo's Most Delicious Nepali Restaurant,
Located fifteen minutes from the south exit of JR Koiwa station,
103 New Châtelet, 5-18-16,minami-Koiwa,Edogawa-ku,Tokyo
11:00~14:30
17:30~23:00
No holiday.
TEL 03-5668-3637
3位
1回
2013/03訪問 2013/11/07
夜のにぎやかな六本木交差点の、
アマンドの裏手の坂を下り、
郵便局と吉野家のあいだの道の、
駐車場のところで、若い女が携帯電話を夜空に向けていた。
見上げるとビルの彼方に、月が、浮かんでいた。
六本木へ来たのは、パリから来た友達のライヴを聴くためで、
食事のためではなかった。
ライヴのまえになにか食べておこうとおもい、
この店をおもいだした。
来店したことはなかったけれど、おいしいことはわかっていた、
なぜって、ropefish さんが褒めていたから。
店は、TUTAYAの正面の、
ちいさなビルの二階だ。
階段を昇って、扉を開け、ぼくはなかへ入った。
明るすぎず暗すぎない、ほど良い照明、
カウンターがあって、さまざまなリカーが並んでいて、
その奥が厨房で、
シェフコートに身を包んだインド人がふたり働いている。
壁側は一列クッションでシートになっていて、
ちいさなテーブルが並び、椅子が並ぶ。
こぢんまりとした、chic なバ-なんだ。
そしてその chic を決定的にしているのが、
カウンターの向こうの、卵形の顔の、首の長いインド美女だった。
ぼくは息を飲んだ。
彼女の瞳は大きく、たたずまいはしとやかで、
しかも彼女はにこやかに微笑んでくれる、
他ならないこのぼくのために。
ぼくはナマステの挨拶よりも先に、
おもわずつぶやいていた、sundari!
彼女は笑い出し、照れて、両手で顔を隠し、
どこで覚えましたか、その言葉、とぼくに訊ねた。
ぼくは答えた、夢のなかで神様が教えてくれました、
あなたにこの言葉を囁くために。
●
美女はただ存在してくれるだけでありがたいもの、
しかしだからといって、ドンペリ、ヘネシー、バランタイン、3万円とか、
テーブルチャージが1000円で30分とか、
そういうお店はぼくには用はない。
まさかとはおもうけれど、
もしやタンドリーチキン3000円、
バターチキンカレー3000円、
パパド一枚500円とかだったらどうしよう、
と、ぼくは恐る恐るメニューを開いた。
ところがどうだろう、
これがまたインド料理好きをよろこばせる良い感じの構成で、
しかも値つけも、そんじょそこらの街場のインド料理屋の相場なんだ、
こんなことがあっていいのだろうか。
ぼくは目移りする素敵なメニューを詩のように味わいながら読み、
熟慮の結果、以下の料理を選んだ。
1)ハラバラ・ケバブ。¥850
2)カダイチキン(カレー)。¥1280
3)カンダ・ポリ(ムンバイの炊き込みごはん)。¥500
そしてぼくは、目の前のスンダリ(美女)に話しかけた、
My name is Julius Suzzy.May I have your name ?
彼女は答えた、My name is Mukta.
ぼくは訊ねた、Mukta,where are you from?
彼女は答えた、I'm from Delhi.
ぼくは言った、Oh sundari,you are from Delhi,
Delhi is comfused city,
from beautiful Indian gate to messy Chandni Chowk.
and there are many historical monuments.
ムクタさんは微笑み、ぼくは続ける。
Anyway,I was very shocked
because Indian people drive a car like crazy,
I could not forget about fear of India's road,
but Indians are the genius of crossing a road.
ムクタさんの唇のあいだで白い歯列が輝く、
あなた、よくご存知ね、というふうに。
それから、ぼくとムクタさんは、インドについていろんなおしゃべりをした。
ムクタさんは、いわゆる綺麗な英語をしゃべる、
彼女の口のなかの彼女の舌は、まるでバレリーナで、
彼女が中産階級のお嬢さんであることがよくわかる。
対照的に、ひそかに世間で有名な、インド人英語は、
「スタルバックス」とか「サルヴィス」とか、「ワン・ハンドレット・パルセント・OK」というふうに、
きょくたんなまでに舌を巻いて、 r を発音する、
ただし、ああいうユーモラスな英語をしゃべるのは、ワーキングクラスの連中だけである。
そうこうしているうちに、ハラバラ・ケバブが届く。
挽肉の乾いた小さな丸いケーキというか、
あるいはハンバーグの親戚みたいなもの、
緑色の美しいミントチャトニ(ディップ)をつけて食べる。
ハラバラ・ケバブと言えば、若かった頃、
銀座のナイルレストランでよく食べた。
しかし、このスワガット・インディアン・タパス・バーの、
ハラバラ・ケバブは、だんぜんエレガントだ。
いくらかスモール・ポーションで、そこがいくらかバーらしい。
おいしい! ぼくはつぶやく、very elegant,svādista!
ムクタさんは満足そうに微笑み、ぼくに訊ねた、
日本の料理は、なにがありますか? 鮨とラーメンだけですか?
ぼくは答えた、Well,Indian eat Indian thali or Indian meels,
we eat Japanese thali,it's a home made food,
not restaurant food.
I tell you Japanese thali's composition.
First of all, rice bresse, miso soup, Japanese pickle,
It is the Trinity of Japanese thali.
and grilled fish with Daikon radish chatni,
and some kind of boiled vegitable dish.
That'all.
いつのまにかぼくは、日本料理の親善大使になっていた、
ムクタさんは、微笑みながら、ぼくの話を聞いてくれる。
それにしても、どうして男は目の前に美女がいると、
なんでもかんでも教えたがるのだろう、
バカだなぁ、と自分でもおもう。
しかも、美女がまた、男の教え好き心をよーくご存知なのだ、
女が男を夢中にさせるのはたやすい、
もしも女がほんとうのことさえ言わなければ。
そんなことをおもっていると、
カンダ・ポリと
カダイチキン(カレー)が届いた。
カンダ・ポリは、イエロウライスの豪華版、
グリンピース、トマト、ピーナッツ、マスタードシードが混ざっている。
かわいく、おいしい。上品な仕上げだ。
カダイチキンは、トマトベースに、
チリペッパーを効かせたピリッとホットなカレーで、
そのグレイヴィーは美しく、艶やかで、えびとピーマンが入っている。
味わいのバランスに気品がある。
ただし、食べているうちに顔から汗が噴き出して、恥ずかしい。
もしもぼくが美女だったなら、
ファンデーションが崩れていただろう。
ムクタさんは、そんなぼくに、
ラスグラ(ミルクで作ったスウィーツ)を一つサーヴィスしてくれた。
小さな純白のボールは清楚で気品がある、
ぼくは幸福を感じた。
それからぼくは、ムクタさんに話した、
ムンバイの美しいビーチで、インド人たちが、
大人も、コドモも、みんなして波打ち際に並んで、
寄せては返す波とたわむれ、それはいかにも楽しそうで、
でも、誰ひとり泳がなかった、そんな光景の驚きを。
すると、ムクタさんは微笑んで言った、
インド人も水泳しますよ。
ぼくは言った、ほんとに?
すると、キッチンのインド人が顔を出して答えた、
わたしはスウィミングします!
たのしい時間はまたたくまに過ぎ、
ぼくは、ライヴの開演時間が近づいていることに気づいた、
あわてて会計を済ませた、テーブルチャージも0円である。
ほとんど女神ラクシュミーのご加護を感じながら、
ぼくは言った、svādista!
Shukriyaa,sundari Mukta.See you soon.
そしてぼくは、ムクタさんの微笑に見送られながら、夜の六本木へ出た。
灯りにあふれたにぎやかな繁華街を急ぎながらぼくは気づいた、
せっかくムクタさんがサーヴィスしてくれた、
純白のラスグラを食べ忘れていたことに。
ぼくはムクタさんに詫びた、
ぼくの心のなかでいまなおラスグラは輝いている、
ムクタさんの微笑と溶け合うように。
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
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4位
1回
2013/05訪問 2016/06/01
おいしい南インド料理を食べるとぼくは、かわいいスウェニィをおもいだす。
南インドの盛り合わせ定食ミールスのおいしいお店としておもいだすのは、
味と香りのふりわけのバシッと決まった西葛西スパイス・マジック・カルカッタ西葛西店、
ミールスを世に広めて12年(?)、池袋のはずれ、エー・ラージ、
ミールス一代男、沼尻オウナー・シェフの大森ケララの風、
優しい味わいながら深く記憶に残る八千代八千代台、葉菜、
いずれも名店揃いながら、けっして忘れちゃいけないのが、
この、武蔵新田(むさしにった)、南印度ダイニング ポンディバワン、
そのミールスは軽く優美で、しかもディナータイムミールスの多彩な華やかさは喩えようがありません。
JR京浜東北線・蒲田から、(あるいは東急東横線・多摩川駅から)、
東急多摩川線に乗り換え、
武蔵新田で下車したならば、「むさしにった発展門」をくぐり、
環八の横断歩道を渡って左折、
(すなわち千鳥三丁目方面に進む)、
2ブロックほど進むと、そこに、ポンディバワンがあります。
かわいい街場の食堂といったふんいき。
オレンジ色の壁、赤いソファー、
6卓20席、テーブルにはプリント柄のクロスがかかり、
ガラス板が乗せてあります。
ナイフ、フォーク、スプーンは、あらかじめ籠に入っています。
オープンキッチンで、厨房にはインド人料理人が2人。
サーヴィスもインド女性、
赤いギンガムチェックのエプロンで、
忙しくオーダーを取り、料理をお客のテーブルに運んでいます。
ディナータイムのミールスをバスマティライスで頼むと、2800円、
ちょっと高いと一瞬おもうけれど、緑のバナナの葉の上に、
色とりどりの冷製、温製の野菜料理が並び、プーリ、ワダ、パパド、
そして小鉢のサンバル、ラッサムを加えて、料理はなんと計12種。
食べ心地もかろやかで、味わいがなんとも優しい。
上品なんだ、それでいてスパイスの愉しみはちゃんとある。
一口づつ混ぜ、混ぜ方を変え、食べるにがたのしい。
デザートにはグラブジャムと、チャイ。
とってもリッチな南インドミールス体験が味わえます。
味の仕上げは穏やかで、
野菜の優しい甘さ、煮込んだ豆のふくよかなうまみ、
とんがらし系の(それでいて、まろやかな)刺激、
ピクルスのすっぱさなど、
さまざまな味が、バランス良く揃っていて、
それを混ぜ、一口ごとに混ぜ方を変えながら、
食べるよろこびは、喩えようもありません。
ディナーミールスのミニマム版がランチタイムミールス。
日本米、チャイつきで1200円。
バスマティを選ぶと1500円で、
ランチタイムミールスは、ターリ(丸いステンレスのお盆)の上に、
バナナの葉が敷いてあって、
サンバルとラッサムがカトリ(小鉢)で、
中心にごはんが盛られ、
ごはんの周りには、色とりどりの野菜料理が盛られています。
料理の数こそ、ディナーミールスに及びませんが、
その優美なおいしさは変わりません。
●
さて、ぼくのレヴューはざっとそのくらいなのだけれど、
ポンディバワンのミールスがおいしかったので、
ぼくは、スウェニィの話をしたくなっちゃったよ。
そう、おいしい南インド料理を食べると、ぼくは、
かわいいスウェニィをおもいだすんだ。
それは五年ほどまえ、十月のチェンナイ、
雨上がりの午後、
ぼくはでたらめに角を曲がっているうちに、
大きめの裏通りへ出た。
通りの向こうに定食屋を見つけ、そこに入ったんだ。
開け放たれたドア、薄暗い店内は、
喩えて言えば、田舎のおこのみやき屋という感じだ。
ぼくは両手を合わせて言った、"Vanakkam!(ワナカム)"
店主も両手を合わせて言った、”Vanakkam!(ワナカム)”
ぼくは言った、"Meals,OK?"
店主は言った、"No,finished.
Now, only Masala dosai, Parota,Korma.”
残念、もうティファン(軽食)の時間なのか。
ミールス(昼定食)の時間は短い、
うかうかしてたらつい食い逃してしまう。
逆に言えば、ティファンなら朝から晩までいつでも食べられる。
ちなみにマサラ・ドーサは、
クリスピーに焼き上げた薄焼きクレープに、
スパイシーに仕上げたポテト炒めを包んで、
巨大な葉巻状に巻いたもの。
パロタはパン(小麦粉を強く練ったものを層状にして焼き上げる)、
コルマは南インドでは、野菜のスパイシー炒めだ。
ぼくは言った、”OK, Masala Dosei,Please."
気がつくと、ぼくの座った椅子の右手、
逆光のなか、ちいさな人物が立っていた。
やがてそのちいさな影が消え、
ぼくの正面に、ちいさな女の子が座った。
大きな瞳、2テールに結んだ髪。小学2年生くらいだろうか。
どうやら食堂の娘らしい。
ぼくは両手を合わせて言った、"Vanakkam!(ワナカム)”
彼女も両手を合わせて言った、"Vanakkam!(ワナカム)”
だが、後が続かない。なぜなら、
ぼくはタミル語をカタコト7単語くらいしかしゃべれず、
他方、彼女は英語をほとんどしゃべれなかった。
彼女はただただぼくを興味深そうに眺める。
ぼくは彼女に言った、"I'm Japani. I'm from Japan."
すると彼女は両手を水平に広げて言った、"plane?"
そう、彼女は、両手を水平に広げて、言ったのだ、"plane?"
ぼくは言った、"Yes, I'm from Japan by plane."
そしてぼくは自分の名前を言い、
次に"Call me Suzzy.”と言った。
彼女は言った、"My name is Sweny"、
彼女の名前はスウェニー。
ぼくはいたずらっぽく笑いながら彼女に言った、
"sixteen, seventeen, eightteen, nineteen,
(ここで間を置いて)、
Sweny!!!"
スウェニイは、うれしそうに笑った。
スウェニィの大きな瞳、2テールに結んだ髪。
もしもぼくがルイス・キャロルだったなら、
幸福のあまり悶絶死していただろう。
折り畳まれた地図を広げると、
テーブルの上で、山折り谷折りになった。
ぼくはその大きな地図をテーブルのこちら側から眺める、
スウェニィもまたその大きな地図を覗き込む、
テーブルの向こう側から。
スウェニィは地図の端に掲載された写真を指して、
「ハイコート(最高裁判所)」と言った、
「ね、ね、知ってる? うちのそばだよ」と言う感じで。
次にスウェニィは、別の写真を指差して、
「ゴイル」と言った。
タミル語にあるのだろうか、
それとも英語の gargoyle か。
彼女が指差す写真には、
たくさんのヒンドゥーの神様のキャラクターが貼りついた寺院の門が写っている。
スウェニィは、褐色の肌、大きな瞳、
髪を2テールにまとめていて、とてもかわいい。
ただし、スウェニィの声は太く、しわがれていて。
かわいい顔とダミ声が、アンバランスで、ユーモラスだ。
そしてスウェニィと交わすたんじゅんな会話はぼくをよろこばせた。
そんな会話をたのしんでいたら、
どうやら彼女の母親が帰って来たようだ。
同じく褐色の肌をしていて、ただし、太っている。
彼女はスウェニィを見て囃したてた、
「あら、あら、あら、あなたもう色気づいちゃって。
ごめんなさいね、ラヴァーボーイとデート中だったのね」。
スウェニィがまた顔をまっ赤にして、怒る、怒る、
「違うってば。違うんだから、そんなんじゃないもん」
みたいな感じで。
そういうニュアンスは、言葉がわからなくても、伝わってくるものだ。
ぼくは言うべきユーモラスな言葉も見つけられず、
うつむいて、微笑み、そしてマサラドーサに囓りついた。
ropefishさん、ポンディバワンを教えてくだすって、ありがとうございました!
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/
5位
1回
2013/04訪問 2016/12/18
ムンバイは、銀座の四丁目の裏通りの地下にある、瀟洒なインドレストラン。
白っぽい空間に、天井からシャンデリアがさがっていて。
明るさのなかに諧調があって、
ブロンズのブッダの頭部が飾られ、
白い木の調度品は、光と植物をモティーフにしていて。
8卓29席ながら、テーブル間隔はそこそことってあって、
chic なふんいきがあって。
銀座4丁目ムンバイは、なかなか良いメニューを持っていてね。
ランチタイムセットは、\1050~\1550。
しかもランチタイムであっても、
ディナータイムメニューから、
ア・ラ・カルトの注文もできるんだ。
興味を惹かれる料理は、
アルティッキー(じゃがいものコロッケ)\546、
ハイデラバードチキンカレー \1155
チキンビリヤーニ \1260、
マトンビリヤーニ\1449、
ミックスビリヤーニ \1449、
ディナータイムのフルコースは、
\3675~\5250まで。
まず、初回のお勧めは、もちろん、
インド文化圏の黄色いお粥、キチュリ、
ランチタイムセット \1050。
構成は、じゃがいものサブジ(炒め物)、
二種のインドアチャール(ひとつは柑橘系の甘いジャムのようなもの。
もうひとつは、酸っぱ塩っぱいもの。)
冷たいヨーグルト。
熱々の黄色いお粥のキチュリが、
白い陶製の大きめのボウルに入っています。
まずそのまま何口か食べ、
次に冷たいヨーグルトをかけ、
熱々のお粥と、冷たいヨーグルトの温度差を愉しみ、
さらには、二種のアチャールの、
甘さ、酸っぱ塩っぱさを、
軽く混ぜながら、混ぜ方を変えながら、
味わいを変化させて、食べる。
とてもおいしい。
そしてぼくはキチュリを食べると、
ひとりの美女をおもいだす。
●
水の国に生まれた彼女の、長い黒髪は艶やかで、
瞳は澄み、はにかみがちの優美な笑顔は、誰もを魅了した。
南国の、湾に面したちいさな土地。
朝夕は霧に包まれ、7月の大雨で水があふれ、
池に蓮が咲き乱れる。
白い花々が雨に打たれ、輝き、
4月には花が咲き乱れ、新たな1年の始まりを祝う。
女たちは美しく装い、光で織ったような黄色い衣服を着るところ。
ホットなホットな夏。スコール。
7月の大雨。10月ふたたびぶり返す夏。やがて訪れる秋。
彼女のコドモ時代は幸福に満ちあふれていた。
なにもかもが祝福され、輝いていた。
しかし、彼女が14歳になった2月のある日、
父が突然倒れ、22時間後、かれが死んだとき、
彼女の幸福な少女時代は幕を下ろした。
彼女は泣いた、朝も、昼も、夜も。
食事をしているときも、祈りを捧げるときも泣いた。
彼女は歩いた、喧噪の市場を抜け、
ペンキの剥がれた壁沿いを通り、犬が吠える臭い路地を走り、
排気ガスの臭いのする交通渋滞の道路を渡り、
川沿いの土手を。
どこまで歩いても、走っても、悲しみは彼女についてきた。
自分がまるで、中味を吸い取られた卵になったような気がした。
桟橋を渡り、残照に鈍く輝く水面を見つめた、
泣き崩れた自分の顔が水面に揺れた、
彼女は自分を醜いとおもった、
モスクの尖塔が夕霧のなかで霞んだ。
喪も明け、雨の降ったある日、
彼女の母はキチュリを作ってくれた、
いろんな野菜をたくさん入れてキチュリを。
キチュリを食べながら、彼女はまた涙をこぼした。
でも、キチュリはおいしかった、
優しいぬくもりがあった。
そして彼女は祈った、「神様、ごめんなさい。
もしもわたしになにか間違いがあったなら、どうかわたしを許してください。」
それから彼女も雨の日はキチュリを作るようになった、
なぜなら、雨の日は涼しく、過ごしやすいから。
ぼくはおもいだす、彼女がぼくに歌ってくれた歌を。
メロディーがふしぎな揺れをともない、それがまた神秘的で、ぼくはその歌に魅了された。
ぼくは歌詞の意味を訊ね、彼女ははにかみながら答えた、
「かれに会いたいけれど、でも、わたしはかれに会えない。
ラヴ・バード、愛の小鳥、
どうかかれにわたしの愛する気持ちを伝えてください。」
キチュリを食べるとぼくは水の国の美女をおもいだす、
そしてとりわけ14歳の彼女の悲しみの乗り越えを。
彼女はぼくに言った、
「雨の日は、キチュリを作りました。」
その言葉は、ぼくの耳に響く、まるで詩のように。
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/
6位
1回
2013/04訪問 2015/10/29
インド料理大好き男に「どこの店が好き?」と訊ねられたとき、女はどう答えたらいいの?
あ、まず前提として、
貴女がインド料理大好き男を夢中にさせることが、
はたして貴女を幸福にするかどうか、それはまた別問題だけれど。
とはいえ、インド料理大好き男たちは玉石混交ながら、
IT系の超かしこい男なども多く、
したがって、釣り師たる女たちにとっては、
なかなかあなどれない釣り場です。
では、そのテの男に「どこの店が好き?」と訊ねられたとき、
貴女は、どう答えれば理想的でしょう?
まず最初に、その男がCoCo壱番屋のようなタイプのカレーライスと
あとはハンバーグ、そして(食べ歩きするほどではないけれど)ラーメンが大好きな、
そんなタイプの場合は、
貴女はかれの目を見て、微笑みとともに質問など無視して、こう言いましょう、
「わたしが、おいしいカレーを作ってあげる♪」
これこそまさに必殺の答えです。
そこでインド料理大好き男が、えへへ、とやにさがったならば、
貴女は、ひそかに、「具がゴロゴロのケンタロウ流ビーフカレー」あたりを
ひそかに練習しておきましょう。これで成功まちがいなしです。
しかし、ここでは、もう少しハイブロウな(?)本格インド料理好きの男の
落とし方をお伝えしましょう。
この場合、貴女は、こう答えましょう、
「わたしは、銀座のグルガオンが好き。
ランチでよく食べるの、カレーはいつもおいしいし、
チーズクルチャも、大好き♪」
もしも貴女がそう答えたならば、
その瞬間、カレー大好き男の目はきらりと輝き、
かれの貴女への恋心は、
20%増量になるでしょう。
なぜって、銀座グルガオンは、ちょっぴりお洒落な地下のダイニングで、
テラスから自然光が差し込んで、席間は狭いながらも、そこがまた
ちょっぴりヨーロッパの気さくなお店みたいなふんいきをかもしだしていて。
しかもグルガオンがランチでふるまっているセットは、
日本のインド料理のスタンダードを、質高くふるまっていて、なおかつ、
チーズクルチャを売りこんだ功績もあって。
したがって銀座グルガオンこそは、
本来なんの接点もないまったく縁もゆかりもない別々の世界に生きている、
岸本セシル似の綺麗系OLと、玉もあれば石も混じっている、そんなカレー大好き男たちが、
この世界で唯一(いいえ、系列店ダバ・インデイア、カイバルと並んで唯三)遭遇しうる場所です。
●
では、参考までに、危険な回答を挙げておきましょう。
インド料理大好き男に「どこの店が好き?」と訊ねられたとき、
貴女がこう答えたとしましょう、
「C&Cのカレーが好き♪ 週3回は、新宿駅で立ち喰いするの。」
その瞬間、カレー大好き男の貴女への恋心は消えます、
なるほどC&Cは、人気のカレーライスチェーン、
カレーは平凡ながら、ま、無難にまとめてあるものの、
しかし、「スパイスはなんと28種類!」とかなんとか無意味な自慢を吹聴し、
インド料理についての謬見を撒き散らした罪がありますから、カレー大好き男にとっては天敵なんです。
また、もしも貴女が「サムラートが大好き♪ あたし行きつけのサムラートが、都内に7軒あるよ♪」
と答えたとしても、同様の効果をもたらすでしょう、
なぜって、サムラートは、1980年代には東京屈指の名店だったものの、
しかし1990年代そうそうから、いやはやなんともなチェーン店に転落し、
いまや、あの価格帯では、シディークの魅力に遥かに及びません。
またもしもたとえあなたがインド料理が大好きで、
「わたし、表参道のシターラが好き、ランチでも食べるけど、
最高に好きなのはディナー♪ タンドリーチキンも、カレーもすっごくおいしいの。」
と、答えたとしたらどうでしょう?
なるほど、貴女の趣味は高く、
たしかにシターラ表参道は、内装が chic であるのみならず、
料理も最高においしいんですけれど、
しかし、貴女の答えを聞いて、インド料理大好き男はきっとおもうでしょう、
(なんだよ、お高くとまった女だな、カネかかりそう)って。
貴女が、インド系料理が大好きで、名店の名を挙げるにしても、
たとえば、銀座アーンドラダイニングならば安心でしょう、
なぜならば、アーンドラダイニングは、
最盛期に比べればいくらか味が落ちたものの、それでも立派な名店で、
ふつうのOLにもマニアにもともに愛されるめずらしい店で、
貴女がその名前を挙げても必ずしも、
あなたがカレおた宣言をしているとは受け取られないでしょう。
しかし、たとえば、インドが誇る超絶炊き込みごはん壺焼きビリヤーニの名店、
小川町シャヒ・ダワットにせよ、
ヴェジタリアン料理でありながらすばらしくおいしい御徒町ヴェジ・ハーブ・サーガにせよ、
土・日ランチタイムのティルネルヴェリ・バンケット・スペシャル1200円税込みがすばらしい
西葛西アムダスラビーにせよ、
ディナーミールスの軽やかさが優美な武蔵新田南印度ダイニング ポンディバワンにせよ、
気さくな店主夫妻がふるまう素敵においしい1100円ランチミールスの、大森ケララの風にせよ、
西ベンガル料理の規範的名店、町屋Puja にせよ、
おもいがけなく現れた西新井のキュートな西ベンガルビストロ、エパレットにせよ、
もうなんと形容していいのかわからない、
ニッポン1のインド料理狂人、心優しい稲垣さんの店荒川遊園前なんどり、
はたまたその稲垣さんが、10年間で500回以上通いつめた、
ネパール料理の最高峰サンサール、小岩本店、はたまた新宿店にせよ、
そういうお店の名前をいきなり挙げるのは、ちょっぴり微妙。
ましてや貴女が、「巣鴨のプルジャダイニングが大好き♪
わたし、もうほとんど全種類、食べちゃった♪」
と答えたならば、どうでしょう?
これはかなり博打な答え方で、なるほど、ネパール料理は北部インドのお隣さん、
両者の料理は似ていながら違い、違っていながらどこか通じ合っている、
そんなネパール料理の魅力は喩えようもなく、
しかもサンサールにせよ、プルジャ・ダイニングにせよ、
(平凡な店構えでありながら、いずれもその味は)圧倒的な名店ゆえ、
あなたがそう答えた瞬間、インド料理大好き男がいきなり超笑顔になって、
鼻の下がだら~んと伸びちゃう可能性もあるにはありますが、
しかし、逆に、(なんだよ、この女、カレーおたくかよ)とおもわれて、
どん引きされる可能性もまた大です、
なぜって、必ずしもインド系料理大好き男がインド料理大好き女を好きになるとは、
限らないですから。
しかも、この答えには、もうひとつ問題があって、
男たちは、女を導き高みへ引き上げてあげることが大好きゆえ、
もしも貴女が、「サンサールの料理が(あるいはプルジャダイニングの料理が)大好き♪」
なんて言ってしまうと、
そこにはもはや、男が貴女をインド系料理教育する余地がまったく残されていません、
したがって貴女のその答えは、
インド系料理大好き男の貴女への夢を潰してしまうことに他なりません。
ま、ざっとそんな感じです、貴女の目には男たちはバカでスケベで鈍感に見えるでしょうが、
しかし、ああ見せて、男は男で繊細で、傷つきやすく、女に夢を持っています、
貴女の答え方ひとつで、男の貴女への夢は大きくふくらみもすれば、
一瞬で、しぼんでしまいもするでしょう。
●
では、スキットを繰り返しましょう。
「わたしは、銀座のグルガオンが好き♪
ランチでよく食べるの、カレーはいつもおいしいし、
チーズクルチャも、大好き♪」
そして、その瞬間、カレー大好き男の目がらんらんと輝いたなら、
貴女はこう重ねましょう、
「それからね、いま、わたしが行ってみたいお店は、
木場のカマルプール、素敵なお店って噂を聞いたから。
あなたのお暇なときがあったら、わたしをカマルプールへ連れてって♪」
これでもう完璧です。
そうなったらこっちのもの、
デートの日には、アイメイクをばっちり決めて、かわいい下着をつけて、
アプワイザー・リッシェか、ジルスチュアートの可愛いワンピを着てゆきましょう。
その日から、インド料理大好き男は貴女の虜になるでしょう。
では、釣り師としての貴女の、愛の幸運と幸福をお祈りします!
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/
7位
1回
2013/08訪問 2016/12/18
ラマナイア・シェフの料理は、
(ぼくはダバ・インディア時代は食べてはいなくて)、
和印道の、立ち上げの2008年秋から2009年3月までの5ヶ月、
そして同年8月アーンドラダイニング出店以降、食べていて、
最初に食べた頃の驚きが忘れられない。
メリハリの効いたスパイス使いは、いかにも鮮烈で、
メニューは夢のように豊富、
ビリヤニこそ眠かったものの、それ以外のほぼすべての料理に、
ぼくは夢中になったものだ。
アーンドラプラテシュ州の料理が初体験だったこともあるだろう、
またラマナイア・シェフが、料理監督のみならず、
自らドーサを焼き上げ、カレーを仕上げていたこともあるだろう。
いまは、銀座アーンドラダイニングもできて、
オペレーションも変った。
いくらかクオリティがまばらになった印象もあるけれど、
それであってなお、いまなお、立派な個性あふれる良店です。
いや、それと同時に、ぼくはラマナイア・シェフの人生が好きなんだ。
●
ラマナイア・シェフは、
料理人の神話、生きている伝説。
かれは十歳のときからレストランの厨房に入り、
掃除担当から、人生をはじめた。
少年時代のかれにとっては、
三桁の掛け算よりも各種マサラの調合が大事で、
なぜなら、それはひとつひとつの料理の香りの構成を体で覚えることだから。
少年時代のかれにとっては、
地理や歴史の暗記よりも、おいしいドーサを俊敏にどんどん焼きあげることが重要、
なぜなら、高い質を維持しながら、なおかつ仕事が速い者こそが厨房の勝者だから。
英語の教科書で山のような例文を覚えるよりも、
満面の微笑みで、Thank you,madam.Thank you,sir.と囁くことこそが、
人生の扉を開く、魔法の言葉だった。
そしてかれは十代の終わりには一人前のインド料理人になり、
二十代では、職場を替えるたびにキャリアをさらにいっそう輝かせていった。
中年になる頃には堂々たるグランシェフになって、
かれの履歴のなかの星つきホテルの星の数は、かれの年齢を上回るほどでした。
もっとくわしく知りたい人は、
ラマナイア・シェフ物語を読んでください。http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613/rvwdtl/3824754/
インドにあってなお、ラマナイア・シェフのような人生は過去のものになりつつある。
なぜって、いまやインドの5大都市― チェンナイ、ニューデリー、
ムンバイ、バンガロール、カルカッタは、東京・横浜となんら変わらない都市で、
中産階級の層も厚く、日本となんら変わるところはない。
そんな現代にあっては、料理人もまた、
中産階級の男の子が、ハイスクールを卒業して、
それこそ日本の辻調理師専門学校さながらの、
オベロイホテル併設の料理学校に入学し、
フランス料理、中国料理、インド料理を学び、
その後、専門の料理を選び、卒業後は(たとえば)オベロイホテルの厨房で揉まれながら、
スペシャリストになってゆきます。
たとえば、東京の表参道SITAARA本店は、
歴代、そんなエリートたちを料理長に採っていて、
すばらしい料理をふるまっています。
かれらは、野菜のカットの大きさの指示出しも、
フランス料理の流儀で、デとか、コンカッセとか、
ジュリエンヌの基準でカットしていて、
それは料理を見ればすぐにわかります。
とうぜんそんなかれらは、教養として、
ボキューズ、ロブション、デュカス、ブラスをよく知っています。
でも、だからといって、かれらとはまったく対照的な、
ラマナイア・シェフの人生とともにある料理のすばらしさを忘れたことは一瞬たりともなくて。
なぜって、義務教育の社会は、平均的に人間の教養を高めるけれど、
その代償として、天才を作ることができない、
まずは一般教養を身に着け、18歳から料理を学ぶことで、得られるものももちろんたくさんあるにせよ、
しかし、十歳からレストランに入り、
それこそ人生で必要なもののすべてをレストランとホテルで身に着けてゆく、
そんな人生もまたあって、どちらが良いとは一概には言えません。
しかし、ラマナイア・シェフの料理がなんとも魅惑的にすばらしいことは、
インド料理を愛する者には疑いの余地はありません。
(もっとも、近年のようにかれが監督職に退いてしまった以上、
この話もまた、いくらかむかしばなしになりつつあるけれど。)
ラマナイア・シェフは、
ちんちくりんで、鼻の下に髭を伸ばし、
愛嬌たっぷりな笑顔がなんともチャーミングです。
ラマナイア・シェフは、東京の南インド料理世界に、
ど派手なスパイス使いの、
アーンドラプラテシュ州の料理の魅力を魅せつけています。
初回のおすすめは、ランチタイムミールス、¥1290。
ディナータイムならば、ディナータイムミールス ¥1950です。
ミールスのラッサムにジャガリ(濁り黒砂糖)を潜ませりするスタイルもおもしろい、
アーンドラプラテシュ州らしいタンドールにチャトニマリネして焼き上げるスタイル、
はたまたユーモラスにおいしい緑豆のドーサ、ペサラットゥがイイ。
ただし、さいきんこちらのペサラットゥは酸味が強すぎる傾向がある、
生地を寝かせすぎなのではないかしら。
ビリヤニは、眠い。
とはいえ、メニューは多彩であり、たのしみどころの多い店です。
旗艦店アーンドラ・ダイニング銀座一丁目店は、内装もちょっぴりお洒落っぽいです。
ラマナイア・シェフ物語。
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ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
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8位
1回
2013/03訪問 2014/01/09
出町柳で降りて、橋の上に立って北の方を見ると、
左側から賀茂川が、右側から高野川が出会い、
三角州を経て、Y字状に合流する景色が見える。
ふたつの川は合流し、鴨川と呼び名が変わり、南へ流れてゆく。
橋から三角州を遠望すると、
両方の岸部と三角州との間に、亀石と呼ばれる飛び石が渡されている。
(碁盤目状にデザインされた京都の町の中心は、
鴨川の流れに沿い、南北に路が走り
次に、その路と垂直に交わる形で、東西の路が走る。
町の中を歩いていると、大きな通りに混ざり、小さな通りが走っていて
その角を曲がったら、一体何があるのか、つい寄り道をしたくなる。)
ゆみさんは言う、
夏になると、小さな子どもは水着になって、
この亀石の周りで水遊びをするの。
ママやパパたちは、麦わら帽子持参で見守って。
学生さんは、亀石の上に座り、素足を水の中に浸して、
気の向くままにおしゃべりしたり。
仕事帰りのサラリーマンの人が、シャツ1枚の姿で、肩にスーツをかけて、
いそいそと亀石をわたっていく風景を見たこともあって。
京都に住む人の暮らしは、鴨川ととてもしたしい。
もうすぐ4月になると、桜やツツジが、
初夏には純白の雪柳や青々とした柳が、
川辺の風景を爽やかに彩って。
季節ごとに訪れる水鳥や虫たちもいて。
夜の帳が下りた出町柳で、
ほのかに町の明かりを水面に映した鴨川が
絶え間ない水音を放ちながら、悠々と流れていく。
ゆみさんは言う、京都大学の教授がね、
鴨川について調査をして、こんなことを発見したの。
鴨川の川辺で座って戯れる男女のカップルたちは、
カップル同士、お互いのプライバシーを干渉しないように、
まるでメジャーを使って正確に測定したかのように、
見事な等間隔の距離を保ちながら座っているって。
こんど、夏に京都に来ることがあったら、
鴨川をのぞいてみてくださいね、
等間隔に座って、愛をささやき合ってる男女のカップルがいますよ。
ぼくとゆみさんは、出町柳から、今出川通りを西へ進んでいく。
かつて福井とつながっていた鯖街道を通りぬけて、ぶらぶら歩いていくと、
ほどなくして、白い障子貼りの「ほんやら洞」という文字が、
裸電球に照らされているのが見える。
●
ぼくは言った、へぇ、ここがほんやら洞なのか。
ほんやら洞は、1972年に生まれた、伝説の店で、
ぼくのように当時、山口県の田舎町に暮らしていた中学生でさえ、
フォーク雑誌のなかの話題で、知っていたほど。
ゆみさんは言う、実はわたしむかし、
ここでアルバイトをしていたんです。
オウナーは甲斐扶佐義さん、
ほんやら洞は、京都の学生や、留学生、アーティスト、学者、
社会活動家たちの集まる老舗。
ここでの出逢いや経験は、いまでも、わたしの大切な宝物。
ゆみさんはそう言って、
年季の入った木とガラスでできた大きな戸を押し、
ぼくを店内へ招いた。
ゆみさんは言う、こんばんは、甲斐さん!
店内に入ると、厚くてしっかりとした木の机と、茶色い皮貼りのソファ。
オレンジ色の裸電球がともる。
フロアは一階と二階に分かれていて、
入口から入ってすぐ右手に、二階へ続く階段が続いている。
ぼくとゆみさんは、木造の階段を上がっていった。
足を踏み入れる度に、きし・・・きし・・・と、木の音がきしむ。
階段を上がりきり、電気をつけると、
そこは、何千冊という本が、うず高く積み上げられている。
ぼくとゆみさんは奥のソファに深く座る。
一階はにぎわっているものの、二階はぼくたちふたりだけだ。
甲斐さんは、二階までメニューを持ってきてくれた。
ぼくは泡盛のロックを、ゆみさんはチャイを頼む。
ゆみさんは言う、
甲斐さんはね、実は写真家さんでもあって。
京都の町の風景や、美女、猫を撮ったりされているの。
「美女365日」っていう写真集も出してらっしゃいますよ。
あ、スージーさんも美女好きでしょ、
なんだか、たのしい、似た匂いがしますね。
ぼくは照れた、(甲斐さんの方がぼくよりずっとチャーミングだとおもうけれど。)
甲斐さんが、チャイと泡盛を持ってきてくれる。
ゆみさんはぼくに言う、ほんやら洞のチャイ、おいしいんですよ、
飾らない、とてもさりげないそれでいて、深い味。
甲斐さんは、ドキュメンタリーの写真撮影みたいなこともされていて、
インド、アフガニスタンなど、スパイスやハーブを使った
チャイ文化のある地域も訪問されているの。
だから、ほんやら洞のチャイは、どこかエキゾチティック。
カレーのメニューもあって、
そのカレーも、どくとくにおいしい。
あぁ、そうだろうね、インド好きに悪い人はいないもの、
ぼくはゆみさんに話す、
1960年代後半から1970年代前半って、どくとくな時代でね、
アメリカがヴェトナム内戦に介入し、南ヴェトナムを支援すると称して、
非道にも(背後にソヴィエト連邦がついている)北ヴェトナムへの爆撃を開始して、
アメリカにとってヴェトナム戦争は、週末のハイキングみたいに、楽な戦争とおもってはじめたものの、
しかし何年たっても陥落できず、しかもいくら戦争がアメリカの軍需産業をうるおすとはいえ、
アメリカ国内でさえ、ヴェトナム反戦運動が大きなうねりをともなって巻き起こっていった。
その上、科学文明への疑いさえも生まれて、
なるほど、アポロが月に着陸したことはめでたいことかもしれないけれど、
でも、他方で、アメリカ軍がヴェトナムへ撒き散らした枯葉剤なんてとんでもないしろものだし、
また、日本では水俣病によって公害が問題になって、
科学って便利やねんけど使い方間違えるとめちゃちゃ恐ろしいものなんやなぁ、
って誰もが恐怖するようになって。
あ、ごめん、なんだかややこしい話になりつつあるね。
ゆみさんは言った、ううん、もっと聞かせて。
ぼくは言う、ゆみさんは聞き上手だね、
ぼくはなんでもかんでも話してしまうよ。
あのね、それでね、あの頃は本を書く人の意識も変わってきて、
近代批判が次々と出てくる。
たとえばそれまでルネサンスといえば、
闇の中世、光のルネサンスなんちゃって、
たとえばフィレンツェ・ルネサンスならば、
ヨーロッパ人が、ラテン語文献をつうじて、はじめて古代ローマを「発見」し、
それによってヨーロッパ人がはじめてキリスト教の世界の<外>をおそるおそる知りはじめ、
多くの人たちが競い合うように古代ローマに夢中になるとともに、
ラテン語ブームが巻き起こり、
しかも、かれら自身も、あこがれの古代ローマをお手本に、街を美化していった時代として、
キリスト教に対する理性の勝利、人間復興、
美しく咲き乱れる数々の芸術、ジョット、アンジェリコ、ボッティチェッリ、ミケランジェロ、ラファエロ・・・・・・
なんちゃってめちゃめちゃ楽天的な見方やってんけど、
でもね、あの頃からは、他方で、
魔術的ルネサンス、闇のルネサンンスみたいな
間逆の発想の本もまた書かれるようになって。
さらに激烈だったのは、歴史家ミッシェル・フーコーの『狂気の歴史』で、
中世はいくらか頭がおかしくたってみんなと一緒に仲良く暮らしていたのに、
それが理性の時代たる近代になったら、狂人は病院に閉じ込められ、社会から隔離されて、
どんだけ暴力的な社会やねん、ほんまは、理性こそが、近代こそが、めちゃめちゃ狂ってるんちゃうか、
っていう倒錯的で挑発的な主題の本だった。
(もっとも公平に言えば、中世だって魔女裁判とかけっこう非道なことが横行してたし、
かつまたこの本は、熱狂的読者を数多く作ったのみならず、
他方で、数々の批判も寄せられたものだけれど。)
一階から、振り子時計の音がする。
ぼくは続ける。
あのね、あの頃は、文化人類学も、宗教学も輝きはじめた。
おもいがけないことだった、
なぜって、新幹線が走り、ジェット機が飛び、(ヴェトナム戦争が終結したゆえ、石油の消費量が激減、
原油価格が高騰したこともあって)、原子炉が次々作られはじめた20世紀後半に、
まさかブラジルの「未開」民族の民族誌(エスノグラフィー)が注目を集め、
アフリカ文化研究やら、宗教学やらが流行するなんて。
でも、本を開けば、そのメッセージは明解だった、
たとえば文化人類学は、ともすれば「未開」民族と呼ばれもする人たちの社会のなかに、
われわれの社会と共通するコードが存在することを見出し、
しかも、かれらの社会にこそ、
われわれが失ってしまった、「全体的人間」としての生の充実があることを、伝えたもの。
階下で、電話のベルが、懐かしい音で鳴る。
甲斐さんがひょっこりと階段を上がってきて、
ゆみさんが歩み寄ると、甲斐さんは「はい」と言って、
みかんを2個、手渡した。
ゆみさんは言う、どこのみかん?
甲斐さんは言う、いや、
近所の商店街で買って来たんや。
そして甲斐さんはまた階段を降りてゆく。
ぼくとゆみさんは、甲斐さんのくれたみかんを食べながら、
皮貼りのソファの上に深く座って、話を続けた。
あれはひとつの時代精神と呼んでもいいかもしれないね、
近代ってそんなにええことばっかりでもないんちゃう、って。
それどころか、個人が裸のままコミュニティもなく資本主義の社会に放り出されて、
なんのセーフティネットもなくて、めちゃめちゃ残酷でしょ。
しかも、人はただの働き蜂にされて。家族だって核家族なんちゃって、バラバラで。
むかしだったら盛り上がった祭も、いまではもう熱狂とはほど遠い。
芸能もまた、やる方と見る方は別の世界に属していて、
両者ともども、資本主義に、囲いこまれていて。
社会も、人の生も、こなごなに砕けているじゃないか、って。
でも、まだ遅すぎることはなくて、
もうちょっと人間らしい社会が作れるんちゃう、
ぼくらはもう一度、精神性ってものをおもいだしてもえんんちゃう、って。
あの時代に、フォークソングが流行したのも、
手づくりの歌を歌ったり聴いたりするおもしろさに、
みんなが夢中になったってことであるのみならず、
同じ精神が息づいていて。
そしてほんやら洞は、関西フォークの拠点として生まれたのみならず、
さまざまな人を結びつけ、活動をはげましていっただろうことが、
この二階の何千冊もの本を見ていると、よーく伝わってくるよ。
ゆみさんはにこにこ笑っている。
●
そしてぼくとゆみさんは、ほんやら洞をあとにし、
今出川通りを西へ進み、なにげなく、
同志社大学の今出川キャンパスに入った。
夜の大学には人影も少なく、
キリスト教の学校らしい煉瓦造りの校舎が佇んでいて。
時計は22時をまわろうとしていた。
ぼくとゆみさんは、大学の門を出て、地下鉄で京都駅に向かった。
電車の車内広告では、京都の小学校低学年くらいの子が、
満面の笑顔で笑いかけている。
電車は、京都駅に到着した。
ぼくとゆみさんは、階段を上がり、ぼくのバスの出発場所である八条口へ向かった。
これから乗るバスの乗り場を確認しにいくと、
若者たちの群れができていた。
ぼくはゆみさんを、JR京都駅の改札口まで見送り、
ぼくはゆみさんと別れを惜しんだ。
そしてぼくは若者たちでいっぱいのハイウェイバスの乗り場へ向かった。
※ タイトルの、「おけいはんとチャイと思想。」は、
京阪電車の広告、「けいはんのるひと、おけいはん」
からお借りしたもので、
関西の女子大生の象徴として使わせていただきました。
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
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9位
1回
2013/11訪問 2022/11/30
新幹線を愛する男の話をしよう。
いや、ミルトンを信奉する小市民悪魔主義者の話と言うべきか。
最初かれは大学のごくふつうの(しょぼくれた)先生に見えたものだ。
かれの話す英文学の話題は懐かしく、
ぼくはかれにしたしみを感じていた時期があった。
ところがしばらくつきあっているなかで、
かれの内なる ささやかな怪物性 にぼくは気づいた。
たいていの人はこの世界をほどほどには愛するだろう、
家族、恋人、友達、仕事、会社、暮らしている街、
はたまた心にしみこんだ音楽、映画、文学作品、贔屓の飲食店・・・・。
ところがかれが愛するものは片手の指にも満たないごく限られた対象だけ。
それでいてかれはいつもポケットに稲穂をしのばせ、
ことあるごとに取り出しては肥えた顔の前でひらひらさせる。
(わたしは早稲田大学の准教授です、わたしを尊敬するように)
という要求である。
いつしかぼくはかれを本のように読んでゆくようになった。
本の主題は、虚栄心と人生、ちいさな嘘、道徳の欠如がもたらすもの、
そして・・・。
ダイニングの中央に箱庭の都市があり、
その先には緑の生い茂る郊外がしつらえてあって、
そのなかを模型の新幹線が走り抜けてゆきます。
ここは有楽町の駅のそば、STEAM LOCOMOTIVE CAFE & BARです。
コーヒーがおいしい。軽食もたのしい。
スパゲッティ・ジェノベーゼ。ピッツァ・マルゲリータ。
SLハンバーグプレート。ハッシュドビーフライス(ハヤシライス)。
島式ホームカレー。
ドクターイエロー型のケーキなどさまざまに揃っています。
ダイニングにはグッズコーナーが併設され、
鉄道模型用の「建売住宅」「状景小物 コンビナート」、
「建物コレクション 劇場」
各種鉄道DVD、鉄道本などを取り揃え販売しています。
鉄道マニアでもないぼくがこのカフェへ入ってみたのは、
ぼくが例の人妻と出会った夜をおもいだしたからだ。
それは恵比寿の割烹でおこなわれたすっぽん食事会の夜で、
ぼくはすっぽん鍋には関心はなかったものの、退屈しのぎに、
つい参加してみた。
幹事は当時四十歳を標榜していたけれど、
しかし脂ぎった皮膚のたるみはどう見ても五十歳を越えていた。
早稲田大学の「准教授」、英文学が専攻だそうな。
まず第一にかれは風貌がちぐはぐだ。
髪は横分けというのか。肥えた顔に銀縁眼鏡。
まぶたには脂肪がたっぷりのっている。細い目。
首は太く短く、ワイシャツに染みだらけのネクタイ。
アーガイル柄と呼ぶのもためらわれる
鼠色地にピンクのくたびれはてたVネックのセーター。
ホームレスから奪ってきたようなジャケット、
(左肩のところにはてのひらサイズの黒皮があててある。
いつも重いショルダーバッグを斜めにかけるため
ジャケットの左肩のあたりが痛みがちで、
それを防止するための措置だそうな。)
腹はでっぷり前方に突き出し、
サブリナパンツ丈の幅広ズボンを穿いている。
(丈が長いと裾がほつれてコスパが悪いからだそうな。)
鼠色のソックスはずり落ち、長芋のような脛が覗き、
優しい犬が川辺で見つけくわえてきてくれたような、
靴のようなものを履いている。
ぼくはかれを7、8年まえから知っていた。
かれは梅島だか西新井だかのマンションに、
(大学教授であるらしい)奥様もいる。13歳の息子もいる。
しかし家族がかれに口をきいてくれることはない。
かれはしたしい友人には奥様のことを鬼と呼び、
かれをまだよく知らない人たちには独身であるかのように匂わせた。
ことあるごとにかれは、亡くなった自分の父親は永田町勤務でした、
と、まるで官僚であったかのように言いもした。
カネ持ちアピールもぬかりない、
「わたしは年収1000万円はいってますけどね。
いえ、わたしなんて庶民ですよ。
だいたい日本社会がおかしいんですよ、
年収300万円の連中が三ツ星レストランへ行くなんて、
世界中で日本だけですよ。」
ぼくは言った、「センセ、自慢もけっこうですけど、
まともなスーツの一着も買いましょうよ、
年収1000万円が泣きますよ。」
みんな声をあげて笑った。
かれは雑食であらゆるものを食べるものの、
心底大好きなのものは焼肉と駅弁、
そしてひよこのロースト、ヤモリのから揚げ、
トド刺、鳩刺、牛の睾丸の網焼きなど、
えたいの知れない数々の肉である。
しかし見栄を張るための食事はまた別で、
レストラン批評家の友里なにがしを師とあおぎ、
ミシュラン評価と照らし合わせ、
祇園の懐石や東京の三ツ星フレンチでも食べていた。
どの名店を選ぶかは、自慢のコスパ哲学(とやら)に鑑みてなされる。
それはコスト・パフォーマンス、
すなわち「費用・対・効果」のことながら、
かれにおいては、なるべく少ないカネでなるべく大きく見栄を張れること。
かれは文化芸術と風流の演出も欠かさない。
西洋古典音楽の演奏会。美術展。はたまた京都。
花鳥風月的なものの鑑賞。
春には桜や牡丹を見に行く。
夏にはたったひとりで花火大会を二十回もまわる。
秋はモミジを見に行き、冬はイルミネーションを見てまわる。
しかしかれには音楽を聴く耳も絵画を見る目もなく、
情緒的感受性があるわけでもない。
しゃぶしゃぶ用の牛ロースの「薔薇」盛りつけ以外の花に、
かれが関心など持つはずもない。
自分が好きでもないことを趣味にして、
こんなにも趣味を取り揃える男なんて聞いたことがない。
かれが前述の食以外で好きなものはアニメ『銀河鉄道999』、
そして新幹線だけなのである。
もっともぼくだって規格外の男ではある。
たいていは派手めの古着のジャケットにチノパン。
(スーツなんて冠婚葬祭用の黒の上下しかもってない。)腹も出ている。
部屋にあるのは鍋とフライパンと豆とコメとスパイス、本とギター。
これまでたくさんの本を読んできた、
後悔はないけれどそんな自分を恥じてもいる。
なぜなら知識よりも大事なことはいくらもある、
感じること、考えること、そしてユーモア。
上等の文学はかけがえのないものだけれど、
しかし心のなかに生きていればいいものだ。
再読しなかった本など読んだうちに入らない、
何度も読み返したくなる本は13冊もあれば十分だ。
そもそも言葉の外の世界がどれだけゆたかか、
言葉はそれを語ることができない。
でもこんなまじめっぽい言い方もほんとは好きじゃないんだ、
ときどきぼくはおもう、すべての言葉が冗談になればいいのに。
はじめて会ったときぼくはかれに言った、
「ぼくにとって英文学は青春のおもいでですよ。
春がくるたびぼくはおもいだす、April is the cruellest month
まったく残酷なことだ、廃墟となり果てた世界にまた春がおとずれる、
その虚無感。
・・・ぼくは懐かしさで狂いだしそうになる。」
かれは言った、「T.S. Eliot の The Waste Landですね。」
ぼくは続けた、「ぼくはあの詩を読んだとき、
映画のようなカットバックのかっこよさと、
スピード感に魅了されたもの。
しかしその後かれの文学論を読んで、
なんだとんだ白人至上主義者じゃないか、とげんなりして、
それからぼくは李白を愛するようになったものですよ。」
かれは言った、「ほんとですかスージーさん、李白まで!」
ぼくは言った、「嘘ですよ、そんなん言ったらかっこいいかなとおもって。
李白なんて白髪 三千丈しか知りませんよ、
“わたしの白髪は9キロメートル、憂いがそうさせしめたのだ” !??
そんな妖怪みたいなじいさん、いないだろ。」
かれは言った、「なーんだスージーさん、冗談ばっかり。」
あるときかれはポンペイ古代美術展を観に行った話をうれしそうに話した。
ぼくは言った、「すべての道はローマに通ず、の時代ですね。
ローマが燦然と輝く一大土建屋帝国だった時代、
三菱地所も三井不動産も叶わないほど。」
するとかれは「エースコックのこぶたのコックさん」みたいな顔で
きょとんとしている。
訊けばかれは、ローマ帝国がもっぱらイタリア半島にだけ存在していた、
と信じていた。
あるときかれは「マンハッタンは京都を範に格子状にデザインされました」
と珍説を述べた。
誰がそんな与太話を信じられるだろう、
格子状の都市は古代ローマがいたるところに作りもしたし、
そもそも放射状の都市と並んでいたるところにあるではないか。
かれは言った、「本に書いてあったんですよぉ。」
あるとき食事会にフランス人が混ざっていたときは、
みんなたのしく英語でしゃべっているなか、
かれだけがうつむいて熱心に
携帯にこびりついた垢を爪楊枝で掃除していた。
いつのまにか稲穂はポケットのなかに消えていた。
かれはまた世間話の仕方を知らなかった。
たとえば誰かが大学院へ社会人入学した話をする。
するとかれは言った、「まんまと鴨になりましたね、
大学経営にとって、社会人学生がいちばんおいしいんですよ。」
はたまた誰かが外国へ引っ越すので至急マンションを売りたいと言う。
するとかれは話題にした、その土地の汚染度を。
誰かがどこかの名店で食事をした話をする。
するとかれは言った、「次回はわたしにごちしてください、
持てる者が持たざる者にごちするのは稲の倣い、
ごちになることこそまさにコスパサイコーですからね。」
かれはサーヴィス料金が総額に対してパーセンテージでかかる店をぼったくりと糾弾し、
デートでおごってもらいたがる女たちを乞食女と罵倒した。
かつてのかれが仲良く一緒に食べ歩きしていた美食友達をも笑いものにした、
「和食屋のご主人のご機嫌を取るために、
年末に3万円のおせちを2個も買うなんてバカですよ。」
かれはぼくのことも陰でいろいろ言っているらしかった、
「スージーなんて何十年間もカレー喰い続けて舌なんてボロボロですよ、
それでいっちょまえにフレンチ通まで気取ってるでしょ、
豚の生姜焼きにボンカレーでもかけて喰ってりゃいいんですよ。」
かれがこんなことを言いはじめたのは、
例のフランス人交じりの食事会以来のことだった。
あるときかれは文学好きのぼくへのサーヴィスのつもりもあったろう、
こんな話題を振った。
「『ハリーポッター』はヨーロッパ文学中世以来の探求のテーマを
上手に扱っていますね。」
ぼくは相槌を打った、「なんか笑っちゃいますね、
だってイギリス文学って、アーサー王の頃からえんえん
聖杯伝説ばっかでしょ。
田舎の殿様のメンタリティですよね。
ロンドンもローマ都市のひとつだったとはいえ、
イギリスは長きにわたってあまりに辺境ゆえ、
なんとかかたちだけでも統治の正統性の象徴が欲しいんでしょ。
それが”キリストが最後の晩餐で飲んだワイングラス”っていうんだから、
どんだけ古代ローマに洗脳されちゃってるんでしょうね。お気の毒。」
すると「准教授」はどういう脈絡か突然、神を呪い、わが身の不遇を嘆きはじめた。
ぼくは言った、「早稲田大学の准教授ならば不遇でもなんでもないでしょ。」
しかしかれは否定した、「いえね、た、たしかにわたしは准教授ですけど、
え、英文科じゃなく、た、他学部の、准教授、ですから、
ぐ、愚民どもが支配するあの薄汚れた、ぞ、象牙の塔で、わ、
わたしは肩身が、せ、狭いんですよ。」
あるときぼくは「准教授」に訊ねた、「なんなんですか、センセのコスパ哲学って。
ミシュランだの友里某だの怪しげ評価を拝みつつ、次から次に高額有名店をまわって。
そんなにコスパが大事なら
自分で弁当作って弁当持参で大学へ通えばいいでしょう。
次に、美食もまた価値をめぐるゲームです。
ほかでもない自分ならではの味覚の基準があるからこそおもしろい、
それなのにセンセはコスパが価値基準だなんて意味不明もいいところ。
また、センセには自分にとってすばらしい料理を提供する店への愛着とか、
料理人への敬愛とかってないんですか?
好きになった店ができたなら何度もリピートしてこそ、
店主の考えもわかってきたり、
自分好みの料理を出してくれるようになったり、
よりいっそうたのしめるでしょうに。」
するとかれはむっとして言った、「わたしは料理は作れません。
どこで食べようがわたしの自由、腐ってもミシュランですよ。
リピートしようがしまいがわたしの勝手。
いちげん客にもちゃんとベストの料理を出してこそ一流ですよ。
それなのに食通気取りどもといえば、
贔屓の店を作って料理人におべっか使っておもねるような奴ばかり、
自分が店にいいように使われていることに気づきもしない。
わたしはけっしてそんな愚民どもに組することはできません。
店の利益と客の利益は相反するもの。店が得すりゃ客は損。
理性ある客がコスパを問題にするのはあたりまえです。
なお、わたしはけっしてグルメについてだけコスパを重んじているわけではありません、
人が人生においてもっとも考えるべきこと、それがコスパです。
スージーさん、コスパが低いってどういうことかわかります?
努力しても報われないことですよ。
コスパが高いのは、楽して報われること。
世の中にはたいした実力も実績もないのにちゃっかり評価され、
うまい汁をちゅうちゅう吸ってる人間どもがどれだけ多いことか。
わたしの信念コスパ哲学は、
そんなふとどきな連中を憎みながら、
呪いながら、
長い年月をかけてじっくり熟成されたものなんですよ。」
ぼくは言った、「なんて陰気な世界観!
いくら努力したって事と次第によっては
結果が出せないこともあるのはあたりまえですよ、
なぜって、ものごとには向き不向きがありますからね。
自分に向いているジャンルを探すことこそが
まず最初に大事なことでしょう。」
かれは言った、「なーーに偽善的なこと言ってるんですかあ!」
そしておもむろにポケットから稲穂を取り出し、
肥えた顔の前でクルマのワイパーみたいに振りながら、こう言った、
「世の中がいかに不公平にできているか、
冷徹に見極めてきちんと憤るべきなんですよ。
人それぞれの努力がきちんと公平に評価される社会を望むことは当然のこと。
わたしはね、ミルトンの世界観をベースに、
わたしのコスパ哲学を育ててきたんですよ。」
ぼくは言った、「ダンテの『神曲』と並んで、
キリスト教文学の双璧、
『失楽園』のあのミルトンですか???」
かれは言った、「そうですよ、
ここで哺乳瓶の話なんかするわけないでしょ。
ミルトンは『失楽園』のなかで予定説 predestination を批判しています、
わたしたちはみんなアダムとイヴの末裔です、
サタンに誘惑され、罪を犯し、
エデンの園を追放され、
死を運命づけられています。
全人類はたったひとりの例外もなくみんなひとしく堕落しているんですよ。
では死後はどうですか?
予定説に立てば、神は、最後の審判において救済する者と、
地獄に突き落とす者とを、あらかじめ振り分けていることになる。
どう生きようが死後の定めはあらかじめ決まってるんですよ。
不公平にもほどがある。
もちろん人はみな生きてるあいだじゅうえんえん気に病む、
はたして自分は救済を予定されているのか、
それとも地獄へ突き落とされる人間なのか。壮絶な緊張ですよ。
ミルトンはピューリタンでありながら言いました、
“たとえ地獄に堕されようと、
わたしはこのような神を尊敬することはできない。”
もちろんわたしも神に屈従など絶対にしませんよ。」
ぼくは言った、「わはは、
なんでまたそんな時代錯誤なこと言ってるんですか、
しかもちゃっかりミルトンの尻馬に乗っちゃって。
予定説は主権の問題ですよ、
宗教が”主権在神”であるのはあたりまえでしょ。
福音書を読めば、神があらかじめ定めていることは、
キリストを子にすることをはじめ、いっぱいある。
誰が天国へ行くか、地獄へ堕とされるかも、神の御心。
厳密な意味で予定説を採るかどうかは諸派に分かれるとはいえ、
誰もそんなことを問題になんてしなかった。
とうぜん16世紀にジャン・カルヴァンが、
ジュネーヴで”信仰にもとづく政府”を作るときも、
”神の主権”を示す重要要綱として予定説を声を大にして強調した。
これは立法的な目的であって、いわば、
伊藤博文が明治憲法をこしらえるとき天皇主権を採用したのと同じことですよ。」
ぼくは続けた、「対照的に17世紀のミルトンは発想が近代的で、
いわばキリスト教を従来の主権在神を否定し、
主権在民に読み替えるべく闘った。
ミルトンは、キリスト教をいわば
戦後の日本国憲法みたいなイメージに改革したい、
そこで予定説こそ人間の自由意志の否定、
この世の無秩序の源泉であると批判した。
なぜか?
それはもちろん、国王に乗っとられて腐敗しきった英国国教会から、
信仰の秩序を取り戻すためですよ。
センセもご存じでしょ、
ミルトンにとってはすでに一世紀まえ
あの血も凍るようなヘンリー8世が英国国教会をでっちあげて、
ローマ教皇と手を切っています。
ミルトンにとってほんらい世界の秩序であるべき信仰が、
王様による王国経営の自分勝手な手段になりさがってしまって、
これがミルトンにとっては許せない。
時まさに印刷出版文化の黎明期、教会の入口は本屋さながら。
ミルトンは宗教政治のパンフレットもたくさん書いた。
なぜなら、いかに大衆の支持をとりつけるか、
それが宗教政治の勝敗を分けるから。
ミルトンはピューリタン革命において、
王様殺しをやってのけたクロムウェルを支持した。
しかも革命成功後の数年はクロムウェルの秘書。
すなわちミルトンは信仰において自由意志を重んじる共和制主義者であり、
その一点においては近代主義者ですが、
同時に正しい信仰の回復を希求していた。
ここにミルトンの17世紀人としての両義性があって。
しかも『失楽園』の出版は、
十年続いた革命政権がクロムウェルの死とともに瓦解した年。
かれが命賭けで支持した共和制は終焉、かれはすでに盲目。
ミルトンの絶望は察するにあまりあります。
どうぞ小野功生著『ミルトンと17世紀イギリスの言説圏』(彩流社2009年)を読んでくださいな。」
「准教授」は吐き捨てるように言った、
「あぁ、あの死者の書ね。あの人も気の毒な人でしたよ。
いくらスージーさんが博覧強記だからって、
知ってる知識をなんでもかんでも口にすればいいってもんじゃありませんよ。
もしもスージーさんが研究者だったなら、
あっというまに教授に嫌われて、
宗谷岬の短大の国際情報コミュニケーション学科かなんかに飛ばされてますよ。
いいですか、わたしはここで辛気臭い論文発表をしてるわけじゃなくて、
もっとスケールの大きな話をしてるんですよ。
見よ、21世紀の日本を、堂々たる悪の王国、
この地もまたミルトンの『失楽園』ではないか。
一言で言えばそういうことですよ。」
ぼくは言った、「で、センセは言いたいんだ、
“さらば希望よ! 希望とともに恐怖よさらばだ!
さらば悔恨よ! すべての善はわたしには失われてしまった。
悪よ、おまえがわたしの善となるのだ!”
わはは、わはは、わはははは。
『失楽園』を『デビルマン』の水準で読んでどうするんですか?
学者でしょ? ふつうに17世紀の英国に即して読みゃいいじゃないですか。
そもそもセンセは早稲田の准教授なんでしょ、英文科でこそないにせよ?
年収1000万円越えなんでしょ? 満足すりゃいいじゃないですか。
なんでそんなに世の中に怨みを溜め込んでるんですか?
よく犯罪を犯しませんね。」
かれは言った、「は、犯罪はコ、コスパが悪いですからね。」
銀縁眼鏡の下の、分厚い脂肪ののったまぶたの下の、
細い目が不気味である。
ぼくは言った、「あ、そっか、
センセは神を呪って悪魔になったのだけれど、
しかし他方でセンセご自慢のコスパ哲学が
センセの悪の実行(=犯罪)を抑止する。
結果センセはけっして犯罪を犯さず、
もっぱら皮肉とあてこすりと冷笑で他人の価値観を毀損してまわる、
順法闘争型の悪魔になったんだ!
超おもしろい!
でも、センセのそのコスパ哲学って、
なるべくカネをかけずに名店でうまいもん喰ってみんなに自慢したい。
なるべくカネをかけずにいろんな女とやりたい。
みんなに羨望されたい。ふんぞりかえって威張りたい。
そして、自分の安全を確保しながら、
嫉妬の対象をおもうぞんぶん攻撃したい。
それだけのことでしょ?
なんでまたそんなあつかましく卑しい心根を、
まるでそれがジェレミ・ベンサム流の功利主義哲学であるかのように
得意げに売り込んでるんですか!??」
「准教授」は声を荒げた、「カネ持ちぶるんじゃないよ、この偽善者!
わがコスパ哲学をバカにするな!
ろくでなしの神を信じることができない理性ある人間ならば、
当然の考えですよ。
もしも百人に尋ねれば百人全員がわたしの方が正しく正直者で、
スージーさんの方が欺瞞的だと答えるでしょう。
だいたいね、スージーさんはいつも自己の無謬性を疑わず、
独善的で、自分が好きな特定の人たち以外へのおもいやりに欠けるんですよ。
17世紀のピューリタンたちがまさにスージーさんみたいな存在でしたよ。
かれらは自分たちだけが正しい、国王も社会もまちがっている、
その信念をもって社会のすべてを糾弾しつづけながら
どんどん過激化していって、
結果みんなからうとまれ、社会の周縁においやられていった。
コスパをバカにする奴はみんな偽善者、全員愚民です。
賢者のわたしは愚民どもにはけっして評価されません。
しかしたとえ世界中の愚民どもが口をそろえて
わたしのコスパ哲学をあざ笑おうとも、
賢者たるわたしはけっしてこれを手放しません、
なぜならこの受難に耐えることこそわが栄光ですから。」
あんた、ついさっきまでピューリタンのミルトンを信奉してたじゃないか、
舌の根も乾かないうちに・・・。
と、おもったけれど、ぼくはもうなにも言わなかった。
ぼくは寝覚めが悪くならないように、
「准教授」をヨイショしておくことにした。
「なにはともあれすごいじゃないですか、准教授、
ミシュラン片手に次から次へと有名店で食べ歩く、
しかも東京はもちろんのこと京都まで、
センセが食べ歩いた有名店は、夜空に輝く星の数♪」
お世辞に弱い「准教授」はとたんに肥えた頬をぐんにょりほころばせた、
「やめてくださいよスージーさん、
いくら一流好みのわたしとてさすがに夜空の星の数には及びませんよ。」
でもほんとはぼくはわかっていた、
実は「准教授」の食べ歩きは、
見かけの豪華さに比してそれほど幸福なものではなかった。
それはそうだろう、
飲食店にとってはある日突然ボロい身なりの肥えた男が現れ、
ぐんにょり笑顔のその脇でまねき猫みたいに右手をひらひらさせる。
こんな客が(あの査定のうるさい)京都の懐石で歓迎されるはずがない。
またレストランフレンチのようにシェフごとにスタイルが違っている世界を
いちいち解読し鑑賞するなんていうややこしい芸当、
「准教授」にできるわけがない。
メニューに「本日の魚のポワレ」と書いてあれば、
「そのポワレはどこ産ですか?」とサーヴィスに尋ねるような男である。
かれにとってグルメ遊びもまたしょせん人まねだった。
かれにしてみれば、きちんとカネを払っているのだから、
しかも肥えた顔の前で稲穂をふりふりして准教授アピールもしているのだから、
どんな名店であっても厚遇を受けてとうぜんだった。
しかし料亭のおかみからは陰で、あんなお人来ていらん、と言われ、
フレンチへ行けば柱の影の席へ通される。
それはそうだろう、名店にとっては、
みすぼらしい恰好でいくら「准教授」アピールをされても、
きちんとした身だしなみの上客のそばにはけっして案内できない。
ましてや美女客でもいようものなら、みすぼらしい風体の「准教授」の
ねっとり脂ぎった視線が彼女の体を舐めまわすのだ。
そもそも名店たるもの、
カネさえもらえばだれでも厚遇するというわけにはいかない。
客をちゃんと選ぶからこそ名店でありつづけられるのだ。
他方、いくら空気の読めない「准教授」とてさすがに気づく、
店のスタッフの接客態度もとおりいっぺん、
料理説明も心なしか(?)ぞんざいである。
かててくわえてかいま見える他の客への厚遇が
かれの怒りをめらめら燃えたたせる。
他の客にはちやほやできて、なぜわたしを歓待できぬ?
なにを理由にこのような不公平が平然と行使されるのか?
許せん! 断じて許せん!
「准教授」はその場ではなんとか屈辱に耐え、
しぶしぶ勘定を払いすごすご退散し、
帰宅後憤怒で目をらんらんと輝かせながらPCを開き、
食べログおよび早稲田関係者しか見ることのできないグルメサイトで、
その店に対して容赦なく筆誅を加える。
愚民の飲食店よ、敗北を知るが良い、地獄の業火に焼かれよ。
かれは自慢した、「もちろん食べログも効きます、
ブログと連動させればさらに。
しかし早稲田サイトに悪評書くことは、
卒業生を含め何十万人もの早稲田関係者への回状ですからね、
わたしが書いた悪評が
その店の存在そのものをまったき消滅にいたらしめたこともありましたよ。」
さて、「准教授」が(見栄でも虚栄心でもなく)
心底身を震わせるほど好きなもの、
新幹線について語ろう。
かれは全国の鉄道の駅名をすべて暗記し、
新幹線が鹿児島から青森まで開通したことをことのほかよろこんだ。
「いまや新幹線を使えば、鹿児島中央-新大阪間が4時間10分、
新大阪-東京間が2時間半、東京-新青森間が3時間、
なんと一日で鹿児島-青森間を走破できるんですよ。
スージーさんなんてE5系はやぶさなんて乗ったことないでしょ、
あのロングノーズの長い長い先頭、エメラルドグリーンに輝くボディ、
アルミニウム合金による中空トラス断面構造、
それでいてインテリアは穏やかで落ち着いたくつろぎの空間、
工学の最先端、世界の鉄道のなかのエリート中のエリート。
まさにわたしが乗るために生まれてきたような新幹線ですよ。」
そしてかれは新幹線でのひとり旅を肥えた顔をほころばせ話しはじめた。
ソファは快適、車内アナウンスも優雅で気品がある。
Welcome to the shinkansen.
その魔法の言葉を聞いた瞬間、
「准教授」はアニメ『銀河鉄道999』の鉄郎になる。
カネ持ちの機械化人どもは不死の身体を持ち、享楽に明け暮れ、
機械伯爵にいたっては機械馬に跨がり人間狩りを楽しみさえする。
新宿区戸塚町の「薄汚れた象牙の塔」そのものである。
(鉄郎の母は雪の降る夜、機械伯爵の餌食になって殺された。)
鉄郎は長い髪の美女メーテルから銀河鉄道パスをタダでもらって、
タダで機械の体がもらえる星をめざし、列車で旅をする。
どの星も格差に満ちているけれど、
しかし列車のなかはやすらぎにあふれている。
やがてアニメのなかの鉄郎は、機械化人を憎み否定しながらも、
自分もまた機械の身体(永遠の生命)を手に入れたい
とおもっているその矛盾に気づくのだけれど、
しかし鉄郎たる「准教授」にそんなやましさの意識などあるはずもない。
考えることはただ機械伯爵に復讐すること、それだけである。
新幹線はまちがっても、あんなお人、来ていらん、
なんて失礼なことは言わない、
あくまでもかれをジェントルマンとして遇してくれる。
その上その土地土地の選び抜かれた駅弁さえ運んできてくれるのだ。
「准教授」はぐんにょり笑顔のその横で
まねき猫みたいに右手をひらひらさせて、
キャスターを押す車内販売の女性から弁当を買い込む。
割り箸を歯で挟み右手を動かしパチンと割って、
口にくわえた一本を右手で取って、
左手のもう一本とこすり合わせささくれを落とす。
まずは「日光杉並木弁当」。円形の弁当箱の上段は、湯葉、
かんぴょうに小エビの唐揚げ、
下段は、シイタケと鶏の照り焼きを乗せた五目飯。
「准教授」は左手で下段の弁当箱を口もとまでもってゆき、
40度ほどの傾斜をつけ、
機関士が釜に石炭を放り込むように、
箸で五目飯をどかどか口に放り込む。
「准教授」の頬はぱんぱんにふくれあがり、
咀嚼運動とともに肥えた頬の上の銀縁眼鏡が上下する。
お次は福島駅、「祭弁当萬笑桃源、壱香味」。
伊達鶏ゆず味噌焼き、鶏そぼろ、錦糸卵をどかどか口に放り込む。
「准教授」はげっぷを漏らし、
持参のお茶をペットボトルからそのまま飲んでいるうちに、もう仙台駅。
ぐんにょり笑顔でズボンのベルトをゆるめ、
逸品「牡蠣づくしの、女将のおもてなし弁当」にとりかかる。
牡蠣飯と牡蠣とほうれん草の柚子味噌田楽と牡蠣のマリネで
頬はぱんぱんにふくれあがり、
咀嚼のリズムに合わせ銀縁眼鏡が上下し鼻歌がもれる、
もちろん『銀河鉄道999』の主題歌である。
この時間が永遠に続いてくれないものか、
しかし至福の時間は短い、新青森までたったの3時間である。
新青森へ到着すれば思案するのは帰りにどの駅弁からはじめるべきか、
「八戸小唄寿司」か「金魚ねぶた弁当」か「津軽の宿 女将弁当」か、
はたまた、美人すぎる八戸市議会議員・藤川優里女史監修の、
海鮮弁当「いちご煮日記」か。
「准教授」はちらりとも考えない、いまだに三陸の山田線、
大船渡線、気仙沼線の復興が、
まったく進んでいないことなどについては。
さて、ぼくと人妻が出会ったすっぽん食事会の夜の話をしよう。
それはまさに夜のはからいだった。
むかしから昼は理性に喩えられる、
すべての事物を明解にしそれぞれの事物を切り分けるから。
対照的に、夜は暗くせいぜい
月明かりが薄っすらと事物の形をほんのり照らすくらいで、
ましてや雲が月を隠したときや月のない夜などは、
事物の輪郭は闇のなかに溶け、
夜はなにもかもを通じあわせてしまう。
夜は、昼にはけっして出会わないようなおもいがけない者たち
が闇のなかで出会い、
だからこそ泥棒、恋人たち、詩人、芸術家は夜を愛し、
暗がりのなかで盗みも恋愛も作品も生まれ、
男と女は愛しあい、ときに女は体のなかに小さな命を宿しもする。
じっさい集まったのはなんともふしぎなとりあわせのメンバーだった。
喩えて言えば、「大木の根っこを龍に見立て、ニスを塗って、
プラスネジで龍の目をこしらえたもの」、
「中高年のいきいきウォーキング」、
「薔薇色の水晶でできた象のブローチ」、
「ハンドブック 地球温暖化問題の嘘を斬る」、
「ガーターベルトをつけた、酒癖の悪い観音様」が集まっていた。
公平のために言えばぼくは「浅草の洋食屋のウィンドウに飾られた、
インド国旗とフランス国旗が刺さった欧風カレーの蝋細工」。
ホストは両肩に巨大なコウモリの翼をつけた
「エースコックのこぶたのコックさん」、
すなわち「准教授」だった。
幹事こそわけのわからない存在とはいえ、
参加メンバーのひとりひとりは有用だったり魅力的でもあろう存在たちが、
しかし一堂に会したとたんに不可解な小宇宙を構成し、
みんなですっぽんを食べた。
お察しのとおりその後ぼくを翻弄することになる人妻は、
「ガーターベルトをつけた、酒癖の悪い観音様」であり、
すっぽん食事会の後ぼくと彼女は恋に落ちたのだった。
なお、ぼくと彼女が出会った後
「准教授」はあるあつかましい要求をとある飲食店に行い、
店のスタッフに笑って拒否されるやいなや、
激烈な自尊感情を暴走させ攻撃に出た。
これをきっかけにかれが(mixi、食べログ、ブログ、
そしてすべての飲食店で)
長年名乗りつづけている名前が偽名だったことが露見し、
かれが徹底的に隠し通してきた本名もみんなの知るところになった。
その肩書「早稲田大学准教授」も詐称だった。
せめてもの救いは、かれがことあるごとに繰り返す
「稲穂ひらひら」に(それなりには)根拠があったこと、
実はかれは早稲田大学社会科学部の非常勤講師で、
その他2つのFラン大学を含む4つの大学でも非常勤として
一般教養の英語を教えてきた。
「准教授」の学歴は早稲田の教育学部を出て、
英文学科・修士課程を2年のところを3年かけ、
中央大学英文科の博士課程に転じ、博士課程単位取得満期退学、
博士号は持ってない。
かれの亡くなった父親は生涯船舶関係の団体勤務だった。
噂では奥様はどこかの大学の教授で、
かれは給料のすべてを飲み喰いに使っているらしいものの、
ただし非常勤講師の薄給で贅沢三昧を気取るのだもの、
鬼気迫るものがあって当然だった。
ぼくは長年の謎が解け納得もしたが呆れもした、
「あんた、偽名使って肩書詐称してたのか。」
かれは必死に抗弁した。「こ、この名前でもちゃんと、ゆ、
郵便は、と、届きますよ。」
ぼくは言った、「要りませんよ、そんなボケ!
聞きましたよ、あんた、早稲田の学内で食事会の知り合いに、
おおはらセンセーって声かけられて、
街なかで源氏名で呼ばれた風俗嬢みたいに、
あわててすたこら逃げたそうじゃないか。」
ぼくも「ガーターベルトをつけた観音様」も呆れたもの、
「どうせそんなことだろうとおもっていたよ。」
そうか、かれは職業選択を誤った気の毒な男で、かつまた
大学という差別的システムによって抑圧され続けてきた男だったのか。
胸いっぱいの怒りと憎しみとともに、かれは運命への反逆に打って出た、
それが「早稲田大学准教授」という虚構を演じることだった。
それはかれにとって精一杯の「自由のための闘争」だった。
しかしみすぼらしい恰好と店への身勝手な要求が災いして、
いつしか楽しいはずの食べ歩きも、
店との血みどろの死闘になり果てている。
おまけにいまや友人たちのなかでかれは、
「自称早稲田大学准教授」と呼ばれからかわれるようにさえなった。
そう呼ばれるたびかれは、しつこいなぁ、と不機嫌になる。
もっとも、もしもかれがコスパ哲学(とやら)を信奉していなかったならば、
ミルトンの悪魔主義はむきだしになって、
結果、早稲田大学英文科教授会で
大量無差別殺人事件が起こっていたとしても、
なんのふしぎもなかったろう。
なんてわかりにくい男だろう、
魂と恰好ともの言いがあまりにも不釣り合いなのだ。
かれの魂の隠し切れない幼稚さじたいは
ぼくはけっして嫌いになれないけれど、
しかしこんなにも反社会的なのだもの、
恰好もまた黒眼鏡をかけ、全身黒づくめの服を着て、
『赤旗』を愛読し、趣味はホラー映画鑑賞、
好きな音楽家はマリリン・マンソン・・・というようにして、
なにを言うときも「糞ですよ」とか、
「FUCK!」とか言うようにすれば、
まわりの人たちも、かれの反社会的な魂をたやすく理解できるし、
かれもまた生きやすいだろうに。
人生ってなんだろう?
もしも機械伯爵を倒し母の仇を討った後の鉄郎ならばこう答えるだろう、
〈命は限りがあるからこそ意味がある、
その限られた時間をどう使うかで、人間の価値が決まる。〉
しかし「准教授」の場合は、
かれの幼稚なミルトン理解が真理の声をかき消すだろう。
現代においては悪魔の下っぱの弟子も食べログにレヴューを書く
平凡でときにいささかはた迷惑なただの小市民だ。
むろんここにこうしてそんな男の寓話を書いたぼく自身もまた、
文学の魔に毒された似た者同士ということにはなるだろう。
せめてどうか文字通り受け取って欲しい、
ぼくが書いたのは喜劇なんだ、けっして悲劇ではなく。
模型の新幹線は模型の都市と郊外をぐるぐる回りつづけている、
喜色満面の自称早稲田大学准教授を乗せて。
この話は『カウンターの隅の、1979 MICHELIN FRANCE。』
http://www.doom.now.cc/tokyo/A1313/A131305/13047581/dtlrvwlst/3443683/
からはじまっていて、そして『春雨スープ、そしてブンカーとチャンの夢。』へ続きます。
http://www.doom.now.cc/tokyo/A1301/A130101/13002524/dtlrvwlst/3535271/
ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理。
http://www.doom.now.cc/rvwr/000436613//
ぼくの、食べログ文学。
今年はそんな基準で選んでみた。
とっくに誰も覚えていないかもしれないし、
もともとそんな言葉を聞いたことさえない人も多いだろうけれど、
2013年の夏、ネットで、食べログ文学という言葉が生まれた。
(どなたが言い出したのか、残念ながらぼくは知らない。)
そのキーワードのもと、さまざまの才筆レヴュアーさんたちのレヴューに混じって、
ぼくのレヴューもまた紹介された。
食べログ文学、その言葉に最初ぼくは苦笑した。
でも、何度も言われているうちに、どういうわけだか、
まんざらでもないな、
と、おもうようになっていた。
(もともとのせられやすい性格なのだ。)
たしかに飲食店は劇場であり、ぼくらは観客であり、ときに役者になる。
その劇を、参与観察者の視点で、脚色し、書き起こす。
それがぼくにとって、食べログ文学である。
カカクコムさんも、食べログ文学賞なんて主催すればいいのに。
優勝者には賞金30万円。
審査員は、文学界からは川上 弘美さん、
漫才界からは、チュートリアルの福田充徳さん、
マンガ界からは『孤独のグルメ』原作者の久住昌之さん。
12月に候補者10人選んでもらって、
1月の審査発表は、審査員・候補者全員参加で、
銀座VELVIA館の ICONIC あたりでやんの。
司会は南海キャンディーズの山里亮太さんあたりにお願いする。
いやぁ、ゴージャスですねぇ。
当日は、シャンパーニュで乾杯、
みんなでフルコース食べて、
審査員各人の講評を経て、
さぁ、レッドカーペットを歩むのは、誰か。
おれ、出席する気まんまん。
楽しいだろうなぁ。
いやはや、スージー、バカならではの多幸症である。